コドモノクニ

コドモノクニ / Kodomonokuni

前衛的な幼児向け雑誌


概要


「コドモノクニ」とは、1922年1月から1944年3月にかけて東京社(現ハースト婦人画報社)から出版されていた2歳から7歳までの幼児が対象の児童雑誌。編集長は鷹見久太郎。

 

「コドモノクニ」の定価は50銭。今の感覚でいうとなんと4000~5000円もする高価な出版物の児童誌だった点が、ほかの幼児雑誌とは明らかに一線を画していた。「幼児のために本物の芸術を届けないといけない」という信念のもと創刊。

 

それまでの絵本に絵を寄せる画家はイラストレーターだったが、コドモノクニは芸術家を起用。文学者では北原白秋に野口雨情、西条八十、内田百聞、横山利一。画家は童画家の武井武雄や岡本帰一をはじめ、藤田嗣治、東山魁夷に古賀春江などが参加。個性豊かで前衛的な童画を載せることにより、芸術的な絵雑誌として高い評価を得た。

 

漫画家の手塚治虫、絵本作家のいわさきちひろ、作家の澁澤龍彦、グラフィックデザイナーの堀内誠一ら、後の表現者たちにも多大な影響を与えた、画期的な雑誌だった。来日した物理学者アインシュタインが持ち帰ったことでも知られる。

童画


創刊号の表紙と、以後ずっと使用される題字を手がけたのは童画家の武井武雄。「コドモノクニ」の代表的な作家で、その作風は現代の感覚で見てもしゃれている。

 

表紙は、水色の帽子をかぶり、赤いワンピースを着た少女が眠り込んでいる絵だ。夢を見ているすきに、手元から妖精がそっと抜けだしてきたところだろうか。1つの画面に郷愁と詩情が同居している。

 

当時の武井は東京美術学校(現東京芸術大学)を出て間もない、無名の絵かきだった。生活のために子ども向けの絵を手がけるようになり、東京社へ売り込みに行く。応対した編集者の和田古江がその場で起用を決めたという。

 

その後、武井は子どものために絵を描くことは「男子一生をかけるべき仕事」と決意。「童画」という言葉を生み、27年には「日本童画家協会」を結成する。まだ挿絵が添え物のように扱われていた時代のことである。

 

武井の絵は斬新な構図と独特の線描で、グラフィックデザイナーやタイポグラフィーに近い。その作品を収蔵するイルフ童画館の山岸吉郎館長は「グラフィックデザイナーやイラストレーターの先駆者。今の時代に生まれていたら最初からデザイナーを目指しただろう」と推察する。

 

動物の絵も得意とした武井の「ドウブツ ノ エンクワイ」(29年)は西洋の軍服や背広を着たライオン、ゾウ、ウマたちがナイフとフォークを使い食事している。ナンセンスなユーモアが微笑ましい。

 

83年に亡くなった武井は「コドモノクニ」を振り返ってこう語っている。

 

「詩を書く人は白秋、雨情、八十の三羽烏、作曲家は中山晋平その他、当時一流の人達が画家もそうですが、頼まれたから原稿料稼ぎにちょっと児童物に筆をそめたというのでなく、自分の作品を一義的に発表しようとした場が「コドモノクニ」だったんです」

 

絵と言葉を組み合わせた「コドモノクニ」は幼児期の想像力を育んだ。音楽を加えた童謡は650冊以上生まれている。

 

このころすでに鈴木三重吉による童謡と童話の雑誌「赤い鳥」があったが、対象は小学校中学生から。「コドモノクニ」はもっと幼い読者に鮮烈な記憶を植えつけた。白秋と野口雨情、西条八十、サトウハチローらが寄稿し、中山晋平らが作曲。松居氏は言う。「豊かな日本語の体験を持った詩人が新しい形で言葉を伝えた。「コドモノクニ」は童謡雑誌だったといってよいでしょう」

 

それはあからじめ学校教育を意識した唱歌とは離れた、子どものための芸術性豊かな歌謡だった。言葉、絵画、音楽。「コドモノクニ」は五感を総動員して味わうものだったのである。

 

 

前衛芸術家中心の幼児雑誌


様々な分野の一流の表現者たちが存分に腕をふることができたのには時代の大きな変化もある。

 

大正デモクラシーの自由を謳歌し、中産階級が台頭。衣食住の西洋化が進み、ハイカラな文化が流行した。東京には地下鉄が開通し、人々はデパートで買い物をするようになる。近代的な教育制度の導入で幼児への教育熱も高まった。都市文化が誕生したのだ。

 

「コドモノクニ」には変貌する日本の姿が表れている。乗り物や機械の絵をよく手がけた安井小弥太の「雪ヲツンデキタ 汽車」(33年)は、東京・上野駅の絵だ。

 

ホームに滑りこんできたのは信州からの雪を乗せた列車。その奥にはもうもうと煙を上げるSL機関車や豆粒のような人影が描かれ、すでに大ターミナルだったことがわかる。

 

交通網の発達と移動手段の増加は人々の行動範囲を押し広げた。幼い読者たちはこうした絵を見て、どこか遠くへ運んでくれる乗り物に思いをはせたのだろうか。左手には陸橋の上からのぞきこむ少年がいる。

 

乗り物の絵をもう1つ。村山知義が文章と絵をかいた「出航」(35年)はこれから港を離れる船が画面をはみだして大きく描かれている。少年少女の衣服や船の窓の力強く太い線は村山のトレードマーク。影絵のような人物表現、鮮やかな色使いはハッとさせられる。

 

「コドモノクニ」が創刊されたころは、欧州で学んだ画家たちや出版物によって最先端の西洋美術が紹介され、芸術家らに刺激を与えた時代でもあった。村山は22年に前衛芸術が隆盛していたベルリンへ渡り、未来派、ダダイズム、構成主義などの潮流に触れ、翌年に帰国。美術、演劇、ダンス、建築など幅広く活躍し、日本の前衛芸術運動をリードした異能として近年再評価されている。

 

もともと子ども向けの絵を描いていた村山は西欧で絵本にも触れており、帰国後は自身が吸収した美術表現を消化してモダンな童画を次々に発表。武井武雄ら「コドモノクニ」の従来の画家陣にも影響を及ぼした。とりわけ、童話作家の妻の籌子と組んだ作品は、台所の鍋を擬人化したものなど、不思議なユーモアをたたえている。プロレタリア演劇に傾倒し、治安維持法違反で逮捕された後も、「コドモノクニ」ではしばらく童画を描いていた。(日本経済新聞)