李洪志の教えを少しずつ紹介していきます。
法輪功は「修」はもちろん「練」で健康な肉体を作る
実は功というものは「練」(気功の運動)によって得るものではなく、「修」によって得るものです。多くの人は功の伸びを追求して、気功の運動のやり方ばかり気を使い、いかに修煉するかを重視していませんが、功は心性の修煉によって得るものなのです。
では、なぜわれわれは気功の運動を教えているのでしょうか?まず、日本のほかの仏教がなぜ気功の運動をしないのか?ということからお話しましょう。彼らは座禅を組み、経文を読み、心性を修めているだけで、それなりに功は伸びます。身体の動作を必要としません。
道家は神通力やさまざまな術類のものを得るために、ある程度の動作が必要になります。法輪大法も功法なので、練功するのに道家と同じく動作が必要になります。
動作は、一つは功能を加持する働きを持ちます。加持とは強い功能を強化して、ますます強くすることです。もう一つは、身体の中にたくさんの生命体を演化させなければならないことです。
完全な功法には、「修」(仏教的なもの)、「練」(道教的な動作)も必要とします。修煉によって得た功は、身体の一つ一つの細胞の中に蓄えられ、高エネルギー物質が蓄えられます。見た目は常人と同じように見えますが、一般の人に比べて非常に健康的で若々しさを維持できます。同じ年齢の人と比べてあながかなり若く見えるでしょう。言うまでもなく、まずは病気を含めて、身体が浄化されていきます。
法輪大法の学習者は、一定期間の修煉をおえると、表に現れる大きな変化として、肌のきめが細かくなり、色も白くなり赤みがさしてきます。年配者は、シワが減り、ほとんど消えてしまう人もいます。これはよく見られる現象です。年配の女性には再び生理が来る人もいます。男性も同じく、年寄りも、若者も身体が軽くなることに覚えるに違いはありません。真に修煉する人はこういった変化を感じることができるはずです。
中国共産党の臓器狩り対象として法輪功修練者が標的にされのは、修練者の身体が極めて健康で、臓器移植に適しているからなのです。
苦しみ積んだ「徳」は師により「功」へ演化する必要がある
苦しんで貯めた徳は功に転化する必要があります。特はどうやって功へ転化するのか。修煉界には「修は己にありて、功は師にあり」という言葉があります。
つまり、耐えて苦しんで徳を積んだだけではだめで、本当のことをやってくれるのは師なのです。あなた自身には徳を功に転化する力はありません。
あなたのような普通の身体で、高エネルギー物質で構成された高い次元の生命体を演化できるとでも思いますか?まったく不可能なことで笑われてしまいます。あなたは徳を積むことはできるが、功にすることはとても不可能です。
師は功を伸ばすために功を与えてくれます。あなたが積んだ徳を功に演化し、螺旋状に上へ伸ばしてくれます。最終的に螺旋状に頭のてっぺんまで伸びた後、1つの功注を形作ります。
今、国内にも国外にも、本当に高い次元への功を転化させることができるものは、私一人しかいません。直接わたしの説法を聞き、功法伝授を受けられる人は、本当に・・・・今この時間が最も喜ばしいときだったと、将来きっとわかることでしょう。
積極的にいじめを受け、苦しみに耐え「徳」を積む
徳についてお話しましょう。人体のまわりには1つの場が存在しています。それがほかでもないわれわれが言う「徳」です。
徳は一種の白い物質で、この白い物質が身体の周りに1つの場を作っています。同時に存在するものに、一種の黒い物質もあり、われわれはこれを「業力」と呼び、仏教では「悪業」と呼びます。白い物質と黒い物質が同時に存在しています。
徳という物質は、われわれが苦しみに耐えたり、打撃を受けたり、良いことをしたりして得るものです。これに対して業力という黒い物質は悪事を働いたり、良くないことをしたり、人をいじめたりして得るものです。
悪事を働くと、その人は自分の白い物質である徳を相手に与えてしまいます。一方、いじめを受けた人は、苦しめられ、逆に相手から徳をもらえるのです。
常人にはこの理がわからないので、いじめられたら我慢できません殴られたら殴り返さなければと思い、つい手を出してしまいます。すると自分の徳が相手に帰ってしまうのです。両者とも損も得もない状態になるわけです。
生きているうちに徳を積めば、今生でなくても来世で高官になる、大金持ちになるなど、欲しいものがあればなんでも手に入ります。徳を積むためには、やはり耐えること「忍」が大事なのです。
欲望を捨て苦しみに耐える
心性のことをいうと、それはイデオロギーに関するものであり、人間の思想問題なので、われわれの煉功とはかかわりのない問題だと思う人がいます。どうしてかかわりのない問題だといえますか?
思想の世界では、物質が第一か、それとも精神が第一かという問題があり、常に議論され論争されていますが、実は物質と精神は同一のものです。
宇宙についてお話したように、宇宙は物質的な存在であるとともに真・善・忍という特性を持っています。宇宙におけるいかなる物質も、宇宙に立ち込めるあらゆる物質も含めて、みな霊的なものであり、みな思想をもっており、みな宇宙の法の異なる次元における存在の形態です。
あなたが心性を修煉せず、道徳水準を高めようとしないで、悪い思想や悪い物質を捨て去られなければ、宇宙の特性(真・善・忍)はあなたを昇華させてはくれません。
要するに、あなたは心性の修煉を重視し、宇宙の真・善・忍の特性に照らして修煉し、常人の持つ欲望や、良くない心、悪いことをする考えなどを取り除かなければなりません。執着心とさまざまな欲望をなくしていかなければなりません。
往々にして人々が良いと思うもの、例えば、個人の利益を多く得れば得るほど、楽に暮せば暮らすほど、悪人になります。また、健康を追い求めて臓器移植で人が救えると思っている人は多いでしょうが、臓器移植が活発になればなるほど悪人になります。どれだけの人が、臓器狩りにあったのでしょうか。
つまり、私たちは自分自身の良くない心を取り除くと同時に、あなたは少しでも苦しみ耐え、難儀を忍ことによって、自分自身の業力を少しでも滅しなければなりません。
忍耐、悟り、捨てる
功が伸びない根本的な原因は「修・煉」の二文字の中で、練しか重視せず、修をおろそかにしていることにあります。あなたは外に向かって求めても、何も得られません。内に向かって修めなければならないということで、外に向かって探してはなりません。
大勢の人は今日はこれを、明日はあれをと外に求め、しかも執着心を抱いて功能を求めるなど、さまざまな目的を持っています。気功師になって、病気治療で大金持ちになりたいという人さえいます!
本当の修煉は自分の心を修煉しなければならず、それは「心性を修める」ということです。心性の修煉を大切にしてこそはじめて功が伸びるし、次元を高めることができるのです。
心性とは何でしょうか? 心性は、徳をはじめとして、忍耐すること、悟ること、捨てること、常人の中のさまざまな欲望や執着心を捨てること、さらに苦しみに耐えることなどなど多くのものを含んでいます。
人の心性の各方面を全面的に向上させて、はじめて本当に上昇することができます。これが功力を伸ばす肝心な要素の一つです。
禅宗の間違い
今、禅宗へ法を学びにいって何か尋ねると、すぐに棒で頭を叩きます。棒喝というものです。「何も聞くな、自分で悟れ」というのです。
禅宗では、法というものは話してはいけないもので、言葉に出したら法ではなくなるので、説ける法はなく、ただ心で悟るのみだといいます。
そのため、禅宗は今日に至っても、何の法も説くことができません。これは禅宗の達磨が釈迦牟尼の言った「法には定法無し」という一言の誤解から始まっています。彼は釈迦牟尼のこの言葉に基づいて禅宗を設立しました。
釈迦牟尼の言う「法には定法無し」の本当の意味はなんでしょうか?
釈迦牟尼は菩提樹の下で、功を開き悟りを開いた後、ただちに如来の次元に達したわけではありません。彼は49年間にわたる説法の間も、絶えず自分を高めていきました。次元を一つ上がるたびに振り返ってみると、説いたばかりの法はみな違っていました。さらに上がれば、先に説いた法もまた違ってきました。
49年の間に、彼はこのように絶えず昇華していきながら、次元が上がるたびに、自分の以前に説いた法は認識が低かったことに気づいたのでした。そこで彼は「法には定法無し」と言ったのです。
釈迦牟尼は最後に、「わたしは生涯、何の法も説いていない」とも言いました。禅宗ではまたしても説くべき法はない理解していました。釈迦牟尼は自分は如来の次元に到達していても、宇宙の最終の理、最終の法が何なのかまだ見えていない、と言ったのです。
したがって彼は、自分の話した言葉を絶対の真理、不変の真理と見なさないように言っており、もし絶対で不変とすれば後世の人は如来あるいは如来以下の次元に限られ、もっと高い次元へ突破できなくるのだと、と後世の人に教えているのです。
後世の人はこの話の真意が分からず、法は語られると法ではなくなると勘違いしています。特に禅宗では、ずっとこのような偏見と極端に誤った認識を持っていました。
心性とは執着を捨てることである
心性の修煉を大切にしてこそ功が伸びるし、次元を高めることができるのです。心性とはなんでしょうか? 心性とは、徳をはじめとして、忍耐すること、悟ること、捨てること、さまざまな欲望や執着心を捨てること、さらに苦しみに耐えることなどなど、多くのものを含んでいます。
心性が高まってくると、身体にも大きな変化が起こります。心性が高まってくると、身体を構成している物質も間違いなく変化が起こります。どんな変化でしょうか? 追求し執着していた良くないものを捨てることになります。
たとえていえば、瓶の中に汚いものを一杯いれて、蓋をしっかりしめてから、水に投げ入れると、底まで沈んでしまいます。中の汚いものを出せば出した分だけ瓶が浮かびあがってきます。修煉の過程において、ほかでもなく人間の身体にもっているさまざまな良くないものを取り除かなければなりません。
「気功」とは「修煉」の隠語である
気功は仏道を修めるためのものであるのに、なぜ気功とよぶだろうか。「気功」の本当の名前は「修煉」と呼びます。修煉とは仏道を修めるためのものです。
それでは、なぜ「気功」と呼ぶだろうか。それは中国の政治問題と関わりがあります。文化大革命時代に「修煉」という言葉を使うと宗教と関係があるものと思われ、吊るし上げられていたのです。
そのため気功師は『丹経』『道蔵」の中から適当な2つの文字を取り出し「気功」と名付けたのです。気功は現代の考えかたに合わせるために、宗教的な臭いを取り除いて新しく作られた呼び名です。
日本でいえば「自己啓発」と言い換えるようなものです。