P・T・バーナム / P・T・Barnum
アメリカ見世物興業の開拓者
概要
生年月日 | 1810年7月5日 |
死没月日 | 1891年4月7日 |
国籍 | アメリカ |
職業 | 興行師、政治家、実業家、慈善家、著述家、編集者 |
フィニアス・テイラー・バーナム(1810年7月5日-1891年4月7日)はアメリカの興行師、政治家、実業家。アメリカにフェイク・テイメントを普及させたことで知られる興業「バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」(1871–2018)の創設者。
バーナムは著述家であり、編集者であり、慈善家でもある。バーナムは自身について「私はプロの興行師です。私にとってあらゆる虚飾はただ虚飾である」と話している。彼の批評によれば、彼の個人的な目標は「自分の金庫に金を入れること」だという。バーナムは「毎分、だまされる人が生まれてくる」ということわざが付けられた。
バーナムは1834年にニューヨークへ移る以前、20代初頭で宝くじの商売をしており、また地元で週刊新聞紙を発行していた。ニューヨークに移ると、見世物興行をはじめる。「バーナム大科学&音楽劇場」という風変わりな一団を立ち上げた。
設立してまもなく、「スカダーのアメリカ博物館」を購入し、名前を「バーナムのアメリカ博物館」に変更した。バーナムはこの博物館をフェイクオブジェやフリークスなど人々の好奇心をくすぐるプラットフォームとして活用しはじめた。
1850年代には、ヨーロッパで人気のスゥエーデン歌手のジェニー・リンドのアメリカ全国ツアーを企画する。未曾有の一晩1000ドル(費用は全額興行主持ち)で150公演行い、大成功をおさめた。コンサートツアー事業よりバーナムの利益は少なくとも500,000ドルにのぼった。
火事で博物館を焼失すると、60歳を過ぎてサーカス事業「バーナム&ベイリー・サーカス」を立ち上げる。世界で初めて列車によるサーカス団の移動を行い、これまでのサーカス団よりも、公演の地理的範囲やアトラクションの規模を大幅に拡大させた。ロンドン動物園から購入したアフリカゾウを連れて巡業したのも話題になった。
2017年アメリカでバーナムの伝記的映画『グレイテスト・ショーマン』が公開された。P・T・バーナムをヒュー・ジャックマンが演じている。
重要ポイント
- アメリカの見世物興行の開拓者
- 世界初列車によるサーカス団の移動をはじめた
- 外国人歌手の全米コンサートツアーを手がけた
バーナムの興業に参加したパフォーマー
略歴
若齢期
バーナムはコネチカット州ベテルで、宿屋経営、仕立て屋、小売人の父フィロ・バーナム(1778-1826)と2番目の妻アイリーン・テイラーのあいだに生まれた。母方の祖父フィニアス・テイラーは、議員で土地書所有者で平和主義であり、そしてまたバーナムに大きな影響を与えた詐欺まがいの宝くじ屋だった。
バーナムは長年にわたって、一般小売店経営、書籍オークション、不動産投機、州全体の宝くじネットワークなどさまざまな事業を行なっている。バーナムは1829年にコネチカット州ベテルを基盤とした週刊新聞誌『自由の女神』を発刊する。この新聞に掲載した地方の教会の長老に反対する記事のため、名誉毀損による訴訟を起こされバーナムは敗訴。2ヶ月間収監されることになった。
コネチカット州で宝くじが禁止され、おもな収入源を断たれると、バーナムは1834年に自宅の店を売り払い、ニューヨークへ移ることにする。1835年に興行師として事業を開始。25歳のときに目の不自由な黒人奴隷の女性、ジョイス・ヘスを買い取り、"161歳のジョージ・ワシントンの元乳母"という売り文句で見世物にすることで、興行師として本格的な人生を歩みはじめた。
奴隷制度はすでにニューヨークで禁止されていたが、法の抜け道を悪用して彼女を実質上奴隷状態にしていた。ヘスは翌年1836年2月に亡くなっている。実年齢は80歳は超えていなかった。バーナムは彼女を1日10〜12時間働かせた。
さらに、バーナムはニューヨークの大会場で彼女の身体の検死イベントを開催し、観衆は50セントを払い、解剖された死んだ女性を見学することができた。検死でバーナムは、ヘスの実年齢は公称年齢160歳の半分ぐらいであることを明らかにした。
偉大な興行師として
バーナムは「バーナムの大科学&音楽劇場」と呼ばれる最初の興行会社を立ち上げて、成功する。しかし、1837年恐慌の後の3年間は事業が困難だった。
1841年、ニューヨークのアン・ストリートやブロードウェイに位置する「スカダーのアメリカ博物館」を購入。彼はもともとあったアトラクションを改善し、建物をリニューアルし、展示するオブジェを追加して、名称を「バーナムのアメリカ博物館」に改名した。するとたちまち人気の名所となった。
バーナムは、ブロードウェイを行きかう人の注目を集めるため、建物に灯台ランプを追加した。また昼間に注目を集めるため、屋上の縁に沿って国旗をたくさん立て、窓と窓の間に巨大な動物の絵画を描いた。
建物の屋上はニューヨークの街を眺めながら散歩できる屋上庭園に改修し、毎日気球を浮かばせていた。建物の屋内では、動物のぬいぐるみ、アルビノ、巨人、小人、ジャグラー、マジシャン、エキゾチックな女性、有名な都市や戦いの詳細な模型、動物園など、ライブパフォーマンスと好奇心を誘う展示物を展示した。
フィジー人魚とトム・サム
1842年の春、バーナムは最初の主要なフェイク・エンタテイメントをしかけた。頭が猿で身体が魚の生物のミイラを「フィジーの人魚」という名前の人魚として紹介した。当時「イギリス領の南太平洋の島、フィジー島で捕獲された。」という触れ込みで展示されていたため、「フィジー・マーメイド」と呼ばれているが、これは偽物である。
バーナムは友人でボストン博物館のオーナーのモージズ・キンボールからこのミイラを借りて、展示した。バーナムは自身のフェイクを説明し、博物館の注目を集めるための宣伝広告であるといってフェイクを正当化した。「私は大衆を騙そうとは思ってはいない。しかし、私はまず彼らの関心をかい、その後楽しんでもらおうとおもっている」と、バーナムは主張している。このフィジー・マーメイドはバーナム博物館の大火災事件時に焼失したという。
人魚のミイラに続いて、バーナムは小人の「ゼネラル・トム・サム(親指トム将軍)」こと、チャールズ・ストラットンを売り出した。トム・サム初登場時、バーナム博物館では4歳として紹介されたが、実際は11才だった。厳しい指導を受け、天性の才能を持ったこの少年は、ヘラクレスからナポレオンまで歴上のさまざまな英雄の物真似を披露し、大衆の人気を集めた。公衆を楽しませるために5歳でワインを飲み、7つの煙草を吸ったりもした。
1843年、インディアンを雇い「フー・フム・ミー」というダンス団を作り、彼らに伝統的なアメリカ・インディアンのダンスを踊らせ、これも評判となった。
1844年から1845年の間、バーナムはゼネラル・トム・サムとともにヨーロッパツアーに出る。イギリスではヴィクトリア女王と面会して彼女を驚かせた。この王室訪問事件はヨーロッパ中の王室を訪問するきっかけとなった。またヨーロッパツアーの際に、バーナムは自動人形やさまざまな機械じかけの驚異を含む、新しいアトラクションを購入した。
この時代、バーナムは買収も多数行っており、フィラデルフィアのピアー博物館を含めさまざまな博物館を買収して、アトラクションを増やしている。1946年までにバーナム博物館の来場者数は年間40万人に達した。
ジェニー・リンドのアメリカ演奏旅行
トム・サムのイギリスツアーの間、バーナムはヨーロッパでは、スウェーデンのオペラ歌手ジェニー・リンドが人気であることに気づく。彼女は控えめで、恥ずかしがりやで、敬虔であり、澄み切ったソプラノボイスを持っていた。
1849年、バーナムがリンドに対し、アメリカ中を一年以上にわたって巡る演奏旅行の提案を持ちかけた。アメリカににおいて一晩1000ドルで150公演行うという内容だった。
リンドはこのツアーを行うことで彼女が力を入れている慈善事業、特に祖国スウェーデンのフリースクールへの大規模な寄付が可能であることに気付き、提案を受け入れた。彼女の財政的な要求は厳密なものであったが、バーナムはこれに応えたため1850年に両者は合意に達した。
バーナムはリスクが大きいことはわかっていたが、バーナムはリンドが道徳と慈善を目的にツアーを行うことをうまく宣伝に利用できると考えた。
リンドは事前料金を請求した。バーナムは同意した。これによってスウェーデンの貧しい子どもたちの学校、フリースクールを運営するための慈善団体という名目ができ、巨額の資金調達が可能となった。バーナムは自身の家と博物館を担保にお金を借りて、リンドに支払った。
しかし、まだ資金は不足していた。そのためバーナムはフィラデルフィアの市長に対して、リンドはアメリカの道徳に良い影響を与えるだろうと説得して、最終的に5,000ドルを借りることに成功した。契約では、60公演以後から100公演の間でツアーを撤退するオプションもリンドに与えた。
リンドと彼女の小さな会社は、1850年9月にアメリカへ渡った。渡航前からリンドはバーナムが事前に行った宣伝によりアメリカでは有名になっていたので、ニューヨーク到着時にはドックには4万人の人が彼女に会おうと集まっており、またホテル先にも2万の人が集まっていた。彼女はプレスにも出席し、「ジェニー・リンド・アイテム」が購入することができた。
バーナムがツアーでどの程度稼ぐのか分からなかったので、リンドは1850年9月3日に新たな契約締結の主張を行った。これによりバーナムから5,500ドルのマネジメント料金が支払われたあと、元の料金に加えて、各コンサートの利益の残りの部分が彼女に与えられることになった。彼女は慈善団体のためにできる限りツアーでお金が稼ぐことに決めた。
ツアーは1850年9月11日、ニューヨーク市マンハッタン南東にあったキャッスル・クリントンでのコンサートから始まり、大きな成功をおさめ、投資額の4倍以上の利益をバーナムは取り戻した。作家ワシントン・アーヴィングはこう宣言した。「あらゆる悪の世界は女性の偉大な表現によって脅かされるが、彼女の表現にはその力がある。神よジェニー・リンドを救いたまえ!」。
彼女の演奏会のチケットには、バーナムがオークションで販売するほど人気が集まったものもあった。国民のリンドに対する熱狂は大変なもので、アメリカのマスコミは、熱狂的なファンから「リンド・マニア」という言葉を生み出した。
バーナムのチケットのオークション販売というずうずうしい商業主義にリンドは心を痛め、彼女はバーナムにチケットを割引価格で入手できるよう苦言を呈した。
ツアーでは、バーナムは宣伝のため常にリンドよりも現地に先行して赴き、現地を盛り上げていた。バーナムは26人ものジャーナリストを雇っていた。ニューヨークの演奏後、リンド一行は継続的な成功をおさめながら東海岸の演奏ツアーをおこない、後にはキューバ、アメリカ南部の州、カナダにも赴いた。
1851年の初頭には、リンドはバーナムの容赦ないツアー運営に居心地の悪さを感じるようになり、彼に対し契約を破棄する権利を行使するに至る。これにより両者は平和的に別れることになった。
彼女はさらに自らの運営によって1852年5月までの間、1年近くにわたってツアーを継続した。バーナムの運営下ではリンドがアメリカで93回の演奏会に出演したことが知られている。これによって彼女は約350,000ドルを稼いでおり、バーナムの利益は少なくとも500,000ドルにのぼった。
中産階級の道徳的興業を目指す
リンドのツアーで膨大な利益を出したバーナムの次の課題は、劇場に対する一般的な態度を改めさせることだった。当時、一般的に"悪の巣窟"と見られていた劇場を、国民にとっての教育と歓喜の場所に変え、誇りある中産階級のエンタテイメントにしたいと考えていた。
バーナムはニューヨークで最も大きな近代的な劇場を建て、その劇場に「道徳教育部屋」という名称を付けた。バーナムはみすぼらしさを避け、家族単位来れるよう魅力のあるものにして、ニューヨークの道徳的十字軍の承認が得られることを望んだ。
バーナムは国内初の演劇昼興行をはじめた。家族での来客を奨励し、夜の犯罪の恐怖を軽減させた。また、禁酒の奨励もおこなった(バーナムはヨーロッパから戻った後、絶対禁酒主義者になった)。劇場では人気の俳優たちによってメロドラマ、歴史演劇、笑劇が催された。シェークスピアの演劇やアンクル・トムのキャビンのような家族向けエンタテイメントを構築するよう努めた。
バーナムは、フワラーショー、美容コンテスト、ドッグショー、家禽コンテンツなどを企画したが、最も人気があったのはベビーコンテスト(一番太った赤ちゃん、ハンサムな双子など)だった。1853年、バーナムは絵付きの週刊新聞紙『挿絵新聞』を発行する。また、1年後には彼の自伝本が完成した。自伝本は多くの改訂を得て100万部以上を売り上げた。
破産から復活
1850年代初頭、バーナムはコネチカット州ブリッジポートで開発投資をはじめる。ジェロム・クロック・カンパニーに多額の融資を行い、それを新しい産業地域へ移した。
しかし1856年に、この会社は破産して、バーナムの事業は経済的に大打撃を被り、4年にわたる訴訟と公的屈辱を受けることになる。ラルフ・ワルド・エマーソンは、バーナムの没落について「神々が再び現れた」と声明し、ほかの批評家たちもバーナムの道徳的帰結であると祝った。
しかし、バーナムの友人たちは彼をサポートした。トム・サムは当時ツアーに出ており、バーナムにツアーの支援を要請する。二人は別のヨーロッパツアー企画に着手しはじめた。また、バーナムは講演ツアーもはじめる。その講演内容のほとんどは禁酒奨励に関することだった。1860年にバーナムは借金を返し、新しい博物館「リンドクラフト」を建て、博物館の所有権を取り戻した。
批評家たちは復活できないと予想したにもかかわらず、バーナムは見事に復活して大成功をおさめた。バーナムはアメリカで最初の水族館を作り、博物館のろう人形部門を拡大させた。彼の「セブン・グランド・サロン」では世界の7つの驚異を実演した。コレクションは4つの建物におさめられ、85万人の物好きに訴えた『博物館ガイドブック』を出版した。
南北戦争期とバーナムのアメリカ博物館大火災
1860年代後半、結合双生児のチャン&エン・ブンカー兄弟が退職する(彼らの子どもたちを大学に進学するのはもっとお金が必要だった)。兄弟は自身でツアーの日程を組み、ノースカロライナ州の農園で家族や奴隷らと暮らしていたが、彼らはバーナムの博物館に6週間出演していた。
1860年にはまた、「猿男」で知られるウィアリアム・ヘンリー・ジョンソンを紹介した。彼は小頭症の黒人小人で、「ジップ・ザ・ピンヘッド」として売り出された。彼はバーナムが用意した謎の言葉を話して、観客を驚かせた。
1862年、バーナムは巨人女性アンナ・ベイツと新しいトム・サムこと小人のコモドア・ナットを発見する。バーナムはコモドア・ナットとともにホワイトハウスのリンカーン大統領を訪問もした。
1861年から1865年にかけてのアメリカ南北戦争の間、バーナム博物館は紛争の憂さ晴らしで大勢の人々がつめかけた。バーナムは南北戦争の出来事に乗じるように、プロ北部主義者の展示物、講演会、ドラマなどを追加する。また1864年には、連合のスパイとしても働いていた女優のポーリーン・クーシュマンを招いて、南北線の背景にある「スリリングな冒険」について講演会を開催もした。
バーナムの連合主義への同情は、1864年の同盟国主義の放火犯による博物館の火災の要因ともなった。1865年7月13日、バーナムのアメリカ博物館は、身元不明の出火で火事になる。ニューヨークの別の場所に博物館を再建させたが、これも火事で破壊された。2回目の火事は被害が大きすぎて、これを最後に博物館事業を撤退することになった。
サーカス事業「バーナム&ベイリー・サーカス」
バーナムは60歳になるまでサーカス事業をしたことがなかった。1870年にウェスコシン州のデバランで実業家のウィリアム・C・カップとともに「P・T・バーナムの大旅行博物館、動物園、キャラバン、競技場」を設立する。サーカス、動物園、フリークス博物館の巡業を行うための会社だった。その後、何度か名称が変更して最終的には、一般的には「バーナム&ベイリー・サーカス」という呼称で知られるサーカス団となった。
このエンターテインメント事業は、世界で今まで見たことがない巨大なサーカス事業となった。電車を使ってサーカス団を移動させた最初のサーカスだった。おそらく個人の列車を購入すること自体も初めてである。当時のアメリカでは、まだ舗装された高速道路が不足していたのを考えると、バーナムはサーカスの営業範囲を大幅に拡張させた鋭いビジネス能力があった。
ショーの最初の重要なアトラクションは「ジャンボ」だった。ジャンボとは1882年にロンドン動物園から購入したアフリカゾウである。バーナム&ベイリー・サーカスではほかに、世界的に有名な親指トム将軍やフリークショー、曲芸なども含まれていた。
バーナムとベイリーは1885年に分裂したが、1888年に仲直りして「バーナム&ベイリー・サーカス」として世界中をツアーに出かけた。
バーナムは革新的で印象的なアイデアのため広告界のシェイク・スピアとして知られるようになった。彼は以前に見たことないものを垣間見せて、客を引き寄せる方法を知っていた。しかし、ときには詐欺的であり、虚偽広告であると非難された。
晩年
1829年11月8日、バーナムはチャリティ・ハレットと結婚。4人の子どもをもうけている。チャリティは1873年11月19日に死去。バーナムは翌年1874年にナンシー・フィッシュと再婚している。
バーナムは1891年に自宅で脳卒中で亡くなった。ブリッジボートにある自分自身でデザインしたマウンテン・グローブ墓地に埋葬された
バーナムの死後、1907年に彼のサーカスはリングリング兄弟 (Ringling Brothers) に売却され、リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスとなり、2017年まで興行を続けた。