熊童子/Bear child
熊の乳で育てられた多毛症の少女
概要
熊童子は嘉永時に活動していた多毛症の見世物芸人。嘉永三年(1850年)7月5日に、品川から江戸へ行進するという宣伝をしたので、通行の道筋にはさながら祭礼のような見物客で群がりができた。
熊童子一行の先頭は、丹後国からつきそってきた男10人、その次に母親に手をひかれて熊童子が歩いた。熊童子は5歳の少女で、身体は着衣のため見えないものの手足をはじめ、顔は眉の上からあごの下へかけて、漆黒の毛が渦巻いてふさふさとしていたという。その後ろを興行師3人が、熊童子と書いた大団扇であおぎながら行進した。
その後、7月15日から、東両国の観場で興する。当時の入場料は24文だった。小屋前には熊童子と書かれたのぼりが立てかけられ、正面に置かれた絵看板には、深山の谷川端で全身真っ黒に毛の生えた童子が、右足で鹿を踏みつけながら、両手で大石を持ち上げている姿が描かれ、その上手に猟師の小屋があり、小屋の前に母熊が小熊に乳を飲ませている様子が描かれていた。
当時、配られたチラシによれば、丹後国加佐郡大江村の山奥に小屋を建てて、猟師の金助が女房のお倉と暮らしていたが、彼女は弘化三年にお倉が女児を出産してすぐに亡くなった。そのため、金助がお福と名づけ、男手1人で養育していた。
ある日、家の前の谷川に一匹の小熊が流れてきたので、金助はその小熊を救いだして飼っていたところ、母親が嗅ぎつけたのだろう、小屋へ来て小熊に乳を与えていた。お福は小熊がおいしそうに乳を飲んでいるのを見て、近づいてもう片方の乳に吸い付いたという。こうして母熊はお福を成長させたが、その後、小熊とともに巣へ帰っていった。
このようにお福は熊の乳で育ったためか、全身に熊のような毛が生じたと記してあった。
このような熊童子は安永期にいた熊女と同じ種類の畸形で、西洋でも珍しく、西暦1848年(明治17年)に、ビルマ産まれのクラオという全身に長毛が密集した女を熊人となづけて、ドイツのベルリンで見世物にしたと、かつて西洋見世物に詳しい人物から聞いた事があった。
この熊童子は、麻の葉模様板締のふんどしをしめたり、下座の囃子にあわせて盆踊りのような踊りをするだけだったが、蛇小僧と異なり本物だったので、人気があり連日満員だった。
その後、浅草奥山をはじめいろんな場所で興行をおこなったが、しだいに飽きられのか、最終的には伊達模様の衣服を身に付けて、町で菓子を売り歩いていたという。
■参考文献・画像引用
・朝倉無声『見世物研究』
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