デイジー&ヴァイオレット・ヒルトン姉妹 / Daisy and Violet Hilton
世界で最も有名な美人シャム双生児
概要
生年月日 | 1908年2月5日 |
死没月日 | 1969年1月4日 |
障害名 | 結合双生児 |
職業 | エンターテイナー、食料品店員 |
配偶者 |
ハロルド・エステップ(デイジー) ジェームズ・ムーア(ヴァイオレット) |
デイジー&ヴァイオレット・ヒルトン(1908年2月5日-1969年1月4日)はイギリスの見世物芸人。結合双生児。
彼女たちは子どものときからヨーロッパ中で展示され、また1920年代から1930年代にかけてはのアメリカのサイドショーやヴォードヴィル、アメリカン・ヴァーレスク・サカースに周遊出演した。
一般的には、1932年の映画『フリークス』や1952年の映画『人生の連鎖』に出演してよく知られている。
2人は1908年2月5日、イギリスのブライトンにあるライリー・ロード18番地に生まれた。母はケイト・スキナーで独身のホステスだった。2人は尻と腰がつながった状態で生まれた。2人は血液循環は共有し、また骨盤は融合状態にあったが、おもな内臓器官はひとりひとり独立した状態にあった。
2人は"シャム双生児"、"ヒルトン姉妹"、"ブライトン双生児"、"ブライトンのシャム双生児"などさまざな呼び方が使われている。
略歴
幼少期
ヒルトン姉妹に関する出生記録や双子の記録は、姉妹の出産を助けたジェームス・オーガスタス・ルース医師がイギリスの医師学会誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』に寄せたものである。
サセックス州・メディコ・チャージカル協会は出産時に分離手術を検討したが、分離手術をすれば、少なくともどちらかが確実に死亡することになるだろうと思われたため、満場一致で反対された。
ルース医師によれば、結合双生児はイギリスで初めて生まれたもので、生後数週間を超えても生き延びたことを記録している。
ケイト・スキナーの雇用者であり、出産を助けたメアリー・ヒルトンは、彼女らの将来における商業的な展望を明確に感じ取り、彼女らを事実上、産みの親から買い取り、庇護のもとにおいた。2人は最初、ブライトンにあパブ「クイーンズ・アームズ」に滞在していたが、のちにパブ「イブニング・スター」へ移った。
姉妹の自伝によれば、メアリー・ヒルトンとその夫と娘は、肉体的な虐待で2人を厳しい管理下に置いたという。彼らはメアリーを「ルーおばさん(Auntie Lou)」、メアリーの夫を敬語的呼び方で「サー(Sir)」と呼ばせるようにした。彼らは姉妹に歌とダンスの訓練を積ませた。
パフォーマーとして
ヒルトン姉妹は3歳のとき、1911年に"結合双子"というキャッチで初めてツアーを行った。メアリー・ヒルトンは、彼女らをドイツ全国へ連れてまわり、次いでオーストラリアへ、その後1916年にアメリカへ連れてまわった。
純粋なサイドショーの立ち振る舞いから、2人のパフォーマンスに対しては創造力豊かな「歴史性」という言葉が付き添った。なお、ヒルトン夫妻は姉妹が稼いだお金をすべて管理していた。
1926年にボブ・ホープは、ダップダンスができるヒルトン姉妹らと、規則的なタップダンスの「ダンスメディアンズ」と呼ばれる演芸を作った。
メアリーがアラバマ州のバーミングハムで亡くなると、姉妹は遺言でメアリーの娘のエディス・マイヤーズとエディスの夫で以前は風船売りをしていたマイヤー・マイヤーズに譲られることになった。
マイヤーズ夫妻は姉妹のマネジメント業を受け継いだ。姉妹はほとんど奴隷状態で、姉妹はメイヤーズ夫妻の言うことを聞かなかったときはぶたれたという。夫妻はしばらくの間、ヒルトン姉妹を公衆から遠ざけて、彼女らにジャズ音楽の訓練をほどこした。ヴァイオレットは熟練したサックス奏者となり、デイジーはヴァイオリニストになった。2人はテキサス州にあるサンアントニオのマンションに住んでいた。
フリーランスのパフォーマーに
1931年、姉妹はマネージャーを告訴し、契約の自由と10万ドルの賠償金支払った。その後、2人は「ヒルトン姉妹」という芸名でボードビル(米国においては舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスのこと)へ移った。
デイジーは髪を金髪にそめ、また2人を区別できるように異なる衣装を身に着けるようになった。ボードビルの人気が落ち始めると、姉妹はバーレスク会場に移りパフォーマンスを行なった。
マイヤーズ夫妻から独立した直後、1932年12月にヒルトン姉妹はベレンガリア号でイギリスへ渡る。1933年の多くをイギリスで過ごし、1933年10月にアメリカへ戻った。
バイオレットは音楽家のモーリス・ランバートと関係を持ちはじめ、彼らは21州で婚姻許可証の申請をするが、すべての州で拒否された。1932年、2人は映画『フリークス』に出演する。その後、2人の人気は衰えていき、ショービジネスで生計を立てるのが難しくなっていった。1951年には自分たちの半生をもとにした映画『チェインド・フォー・ライフ』に主演した。
晩年
1936年にヴァイオレットは同性愛者の俳優ジェームズ・ムーアと宣伝行為もかねて結婚した。結婚は10年間紙上で続けられたが、結局は無効となった。1941年にデイジーはダンサーのバディ・ソーヤーとして知られるハロルド・エステップと結婚した。彼もまた同性愛者だった。結婚は10日間で終わった。
ヒルトン姉妹が最後に公衆の場に姿を見せたのは、1961年ノースカロライナ州シャーロットのドライブインシアターにおいてであった。そこで、ツアーマネージャーが彼女らを捨て去ったのである。移動の手段も収入を得る手段もないので、彼女らは近くの食品雑貨店で働くことを強いられ、残りの人生をそこで働いて過ごすことになった。
1969年1月4日、二人が出勤しなくなったので雇い主が警察に通報し、自宅で二人とも香港かぜで死亡しているのが発見された。法医学の鑑定により、先にデイジーが亡くなり、2〜4日後にヴァイオレットが後を追ったものとみられている。
2人はシャーロットのフォレスト・ローン・ウェスト墓地に埋葬された。
死後のドキュメンタリー作品
1989年、2人の生涯をもとにしたミュージカル『Twenty Fingers Twenty Toes』(脚本はマイケル・ダンジッガーとボブ・ニグロが担当、音楽はマイケル・ダンジッガー)が、WPAシアターで上演され、35回公演が行われた。このミュージカルの脚本はニューヨーク公立図書館に収められている。
また、姉妹の生涯をもとにしたブロードウェイ・ミュージカル『サイド・ショウ』(脚本はビル・ラッセル、音楽はヘンリー・クリーガーが担当)が、1997年10月16日にリチャード・ロジャーズ劇場で公演された。エミリー・スキナーがヴァイオレットを演じ、アリス・リプレイがデイジーを演じ、91回公演が行われた。このミュージカルはトニー賞で4部門のノミネートを受けた。
2014年、実質的にリライトされたミュージカル『サイド・ショウ』がジョン・F・ケネディ・センターで開催され、またブロードウェイへ移り、2014年11月17日にSt ジェームズ シアターで開催された。エリン・デビーがヴァイオレットを演じ、エミリー・パジェットがデイジーを演じた。良い評判が得られたが2014年1月4日に公演は閉じられた。
2012年、レスリー・ゼメッキスは『Bound by Flesh』という姉妹の生涯に関するドキュメンタリー映画を制作。『ハリウッド・リポーター』誌は「徹底的に研究しつくした傑作映画」と賞賛した。この映画は2012年のハリウッド映画祭と2013年のルイジアナ国際映画祭でベストドキュメンタリー賞を受賞した。
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