警察権力や国家形態が揺らぎだしている
自由が行き過ぎたすえの暴力
わたしたちは、日本に住んでいる。そして日本には、昔からの伝統的な文化が存在する。しかし、もうすでにその文化は破壊し尽くされてきていると考えたほうがいいと思われる。
たとえば、『犯罪白書』等を見ると、毎年毎年よりひどい犯罪が増えてきている。特に94年では、銃の乱射事件等が件数を増し、非常にアメリカと似た国家体制になってきているということができる。たしかにこれらの暴力は一見わたしたちを自由にしたかのように見える。
ここのところはもう少しね、詳しく解説をしないとわかりづらいかもしれないが、要するに自由に暴力を振るうことができるような自由な国である。
しかし、果たしてそうであろうか。これは明らかに国家形態が弱り、特に警察権力が弱ってきていることを表している。この警察権力の弱りは、別の言い方をすれば、国家体制そのものが揺らぎ出していると見ることができる。
マスコミと個人主義が警察や国家を弱体化させた
ではなぜ、揺らぎ出さなければならないのか。もともと国家を支えるベースとなるものは思想である。そしてまた、教育である。この思想、教育の歪みが今の国家形態の弱体化につながっているということができるとわたしは言いたいのである。
もっと具体的に言うならば、個人主義の徹底、そしてエゴの増大、イコール、あだなすものに対しては何をやっていもいいんだ、あるいは仇なすものに対しては一定の暴力が許されるというマスコミの風潮、このマスコミの風潮によって個人主義の徹底がなされ、そして暴力が増大するのである。
たとえば皆さんも、今までのオウム真理教の社会的な弾圧に対して憤りを感じたことがあるかもしれないが、その中で一般市民と呼ばれる創価学会を中心としたグループが、オウム真理教のサマナ(出家修行者)に対して、殴る蹴るの暴力を振るった事実というものはテレビ等で、あるいはビデオ等で何度か見たことがあるはずである。
これらの行為が平然と流される時代そのものが、「個人的な暴力の増大」=「それを取り締まることのできづらい状態」、つまり「警察権力の弱体化」=「国家権力の弱体化」と見るのは正論であると考えられる。
権力の弱体化の原因はアメリカの思想にある
そしてこの、権力の弱体化はいろいろな思想を生み出し、よりいっそう国家を揺らす結果となる。そしてこれらの計画はすべて、初めから予定されていたもの、つまり計画の中の一つであったと考えるならば、1945年の第二次世界大戦の敗北から今に至るまでの教育体制の変化、および教育者の権威の失墜等々、あらゆる現象のつじつまがあってくる。
そしてわたしたちはその先輩であるアメリカを反面教師、つまりまさに反対側の、なしてはならない教師として観察すべきなのである。ここで一曲「救えオウム ヤマトのように」。
■出典
・麻原彰晃「日出る国、災い近し」