【まとめ・解説】法輪功「道徳的な哲学と瞑想と気功の実践を組み合わせた中国の気功集団」

Falun Gong


マンハッタンで瞑想の練習をしている法輪功修練者。
マンハッタンで瞑想の練習をしている法輪功修練者。

概要


法輪功、または法輪大法は、「真実」「思いやり」「寛容性」(中国語:真善忍)の教義を中心とした道徳的な哲学と瞑想と気功の実践を組み合わせた中国の気功集団。創始者は李洪志

 

仏教の道徳、徳の修養、気功法を重視しているがその教えには道教の伝統的な要素も含まれている。法輪功の修練者は、道徳的な規範と瞑想の実践を通じて、執着心をなくし、最終的には精神的な悟りを得ることを目指してる。

 

法輪功は、1992年に李洪志によって中国東北部で始められた。中国の「気功ブーム」の末期に生まれたもので、この時期には、瞑想、ゆっくり動くエネルギー運動、規則正しい呼吸法などよく似た修練が中国全土で盛んに行われていた。

 

法輪功がほかの気功学校と異なるのは、会費や正式な会員資格がなく、また、毎日の礼拝の儀式もないインターネットを中心に世界中で情報の連絡や発信を行っているゆるやかなネットワーク集団であることである。

 

法輪功は当初、中共政府の支持を得ていたが、1990年代半ばから後半にかけて、共産党と公安機関は、法輪功の規模の大きさ、国家からの独立性、精神的な教えから、潜在的な脅威とみなすようになった。

 

1999年までに、中共政府は法輪功学習者の数を7000万人と見積もり、その間、法輪功の否定的な報道が国営メディアで発信されるようになり、修練者たちは関係したメディアに対してピケッティングで対応した。

 

1999年4月には、1万人以上の法輪功学習者が北京の中央政府ビルの近くに集まり、法輪功の法的承認と国家の干渉からの自由を求めた。このデモは、その後の迫害・虐待のきっかけとなったと広く認識されている。

 

1999年7月20日、中共指導部は全国的な取り締まりと多面的なプロパガンダキャンペーンを開始し、法輪功を根絶を始める。1999年10月には、法輪功に言及したウェブサイトへのインターネットアクセスを遮断し、法輪功を社会の安定を脅かす「異端の組織」と宣言した。

 

その後、中国の法輪功学習者は、さまざまな人権侵害を受けていると言われている。数十万人が超法規的に投獄されていると推定されている。2009年の時点で、人権団体によれば、少なくとも2000人の法輪功学習者が拘束中の虐待で死亡したと推定している。中国の臓器移植産業に供給するために数万人が殺されたのではないかと推定もされている。

 

法輪功の創始者である李洪志は、1996年以来、100人ほどの信奉者と一緒にニューヨーク市の警護施設で生活しており、法輪功は世界的にかなりの支持者を獲得している。中国国内では、何百万人もの人々が迫害にもかかわらず、法輪功を修練し続けている人がいると推測されている。

 

西洋の学者たちは法輪功を、気功訓練、スピリチュアル運動、中国古代の伝統的な修養システム、あるいは中国の宗教の一形態と表現している。

重要ポイント

  • 仏教と道教の教えを基盤とした気功集団
  • 中国共産党から弾圧され臓器市場の供給元の可能性
  • 会費や会員制がなく緩やかにつながっている集団

法輪功の起源


法輪功は、中国では気功運動と呼ばれている。気功とは、現代の言葉で説明すると、ゆっくりとした動き、瞑想、呼吸法などのさまざまな修練を指す。気功のような運動は、歴史的に仏教の僧侶、道教の武術家、儒教の学者によって、精神的、道徳的、肉体的に洗練されたものとして実践されてきた。

 

近代気功運動は1950年代初頭に出現し、共産党幹部が健康増進のための方法としてこの技術を取り入れていた。宗教ではなく医学として扱われていた。そのため、毛沢東の文化大革命期に李洪志は、宗教的な慣習との関連を避け迫害を逃れるため、当たり障りのない「気功」という言葉を採用している。ほかの気功採用者たちも、宗教的な意味合いを避け、漢方医学の一分野として捉えていた。

 

1978年12月の「第11期3中総会」で、鄧小平が復権すると、社会主義中国も「自由化」と「民主化」の新しい道が開き始めた。そのような流れのなかで、かつて「宗教はアヘンなり」といって弾圧していた中共政府もようやく精神的なものに気を使う余裕をしめはじめた。

 

1982年3月に中共政府が出した『第19号文献』は、その嚆矢ともいうべきもので、鄧小平体制が成立後の宗教政策の根本方針を明示したものとして、その後の「宗教ブーム」の引き金を引いた。また、同年1982年に、李洪志は中共政府公認の「気功師」の免許も取得し、公然と組織活動をしていた。

 

この「宗教・信仰の自由」を公認する基本方針は、同じ年に成立した『新憲法』の中でもはっきりと明文化されている。すなわち、「正常な宗教活動は、国家がこれを保護する」という条文である。法輪功の修練者たちが必死になって「憲法違反だ!」と叫んでいるのも、ここに根拠があるのだ。

 

このような新しい風のもと、毛沢東時代の宗教弾圧以降の精神的な空白が続く中で、数千万人の都市部の高齢者を中心とした中国人が気功をはじめ、さまざなカリスマ気功師が中国全土で現れた。一時期、2000以上の気功学習が行われた。

 

1985年に国営の中国気功科学研究会(CQRS)が設立され、気功ムーブメントの監督・管理しはじめる。

 

1992年5月13日、李洪志は中国東北部の長春市で法輪功(法輪大法とも呼ばれる)に関する初の公開セミナーを開催する。

 

李洪志は、彼の伝記の中で、仏教と道教の伝統的な師匠たちから「修行」の方法を教えられたと話している。その中には、仏派大法の第十代目の継承者である泉寿、長白山の道教の異名を持つ大道派の師匠が含まれている。法輪大法は、彼が受け継いだ教えを再編集したものだという。

 

李洪志は、法輪功を「何世紀にもわたる修行の伝統」の一部として紹介し、共産主義時代に捨てられていた気功の宗教的、スピリチュアルな要素を復活させようとした

 

法輪功はほかの気功学校とは一線を画しており、その教えは精神的、形而上学的なテーマを幅広くカバーしており、道徳と徳を重視し、完全な宇宙論に基づいているという。

信念と実践


中心的な教義


法輪功は、修練者が道徳的な正しさを身につけ、一連の稽古と瞑想を実践することで、精神的な向上を高めることことを目的としている

 

法輪功の信念の3つの中心的な信条は、真実性(真、Zhēn)思いやり(善、Shàn)寛容性(忍、Rěn)である。

 

これらの信念は、宇宙の基本的な性質で善良なものである。そして善と悪を区別するための判断力を持つ要素と見なされており、道教または仏教の法において最高の状態であると考えられている。

 

1995年に出版された『法輪大法(转法轮)』の中で、李洪志は「人類の道徳基準がいくら変化しようが問題ではない。宇宙の性質は変わらず、徳を身につけることが誰が善人で誰が悪人かを判断する唯一の基準である。だから、修練者になるためには、宇宙の自然こそ自身の精神の向上をはかるための指針としなければならない」と書いている。

 

法輪功の修煉には2つの特徴がある。1つは修練の実践であり、もう1つは、心性(道徳性、気質)を保つことである。李氏は「心性には徳があり、寛容があり、覚醒があり、手放すことができる」と述べている。例をあげると、普通の人々のなかにあるすべての欲望や執着を手放すこと、そして苦難に耐えなければならないことなどである。

 

道徳性の向上は、一方では、真実、思いやり、寛容性を持もって人生を送ることで達成される。他方では、貪欲、利益、名利、願望、殺害、闘争、窃盗強盗、欺瞞、嫉妬といったネガティブな思考や行動を放棄することによって達成される。

 

法輪功の教えに見られる中心的な概念の中には、「徳(ヴァーチュー)」「業(カルマ)」の存在がある。徳は善行と苦行によって発生し、業は悪行によって蓄積されていく。業と徳の比率によって、現世か来世かの運勢が決まると言われている。徳は幸運をもたらし、精神的な変容を可能にするが、業の蓄積は苦しみ、病気、宇宙の本質からの疎外をもたらす。

 

精神性の向上は、負の業の除去と徳の積み重ねによって達成され、道徳性を高めるプロセスを通じて、人はタオを達成し、特別な力と神性を身につけることができると考えられている。

 

法輪功の教えでは、人間はもともと善良な存在であり、神でもあるとしていたが、生命体の数が多くなり、その集団に社会的な関係ができると、その成員の中の一部の人々が次第に利己的な性向を強めていくようになり、業を発生させたあと、妄想と苦悩の世界に堕ちてしまったと考えている。

 

そして、このようにして下へ下へと堕ちて行った結果が、「常人」すなわち「修練しない普通の人」からなる現実の人類社会なのだ。輪廻転生が存在し、さまざまな人々の生まれ変わりのプロセスがさまざまな神に監視されているという。

 

法輪功の学習者は、「本来の真の自己」に帰るために、真実性、思いやり、寛容性を身に着け、「執着と欲望」を手放し、業を落とすために耐える必用がある。

 

稽古の究極の目標は、悟りや精神的な完成度(yuanman)、輪廻転生のサイクルからの解放、など仏教の伝統的な教義として知られている。

 

中国の伝統的な文化思想と現代性は、李洪志の教えの2つの焦点である。法輪功は、人間は心と体を通じて宇宙とつながっているという中国の伝統的な信仰を反映しており、李氏は、宇宙の性質と起源、時空、人間の体について、「従来の精神論」に挑戦しようとしている。

 

この実践は、東アジアの神秘主義と伝統的な中国医学に基づいており、現代科学、特に進化の自主的制限とされているものを批判し、伝統的な中国科学を全く別の、まだ同じように有効な存在論的なシステムとして捉えている。

シンボル


シンボルは法輪(サンスクリット語ではダルマカクラ)である。仏教では、ダルマカクラは教義の完全性を表す。法輪を回す(Zhuan Falun)とは、仏教の教義を説くことを意味する。法輪は、仏陀を表す一つの大卍と四つの小卍(反時計回り)のシンボルと、道教の伝統を表す四つの小太極(陰陽)のシンボルで構成されたエンブレムによって概念化されている。

具体的な日常生活


●世俗主義

法輪功は仏教の教えを基盤にしているが出家の伝統とは異なり、世俗の世界に参加することを重視している。法輪功学習者は、通常の仕事と家庭生活を維持し、それぞれの政府の法律を遵守し、社会から距離を置かないように指導されている。ただし、もともと仏教の僧侶と尼僧は例外で法輪功を修煉している間、僧侶としての生活を続けることが許されている。

 

●真・善・忍

法輪功の教えは、倫理的な行動を重視しており、修煉者のために厳格な個人道徳を規定している。困難に遭遇したときには、正直に行動し(真)、善行を行い(善)、忍耐と寛容さを持って行動する(忍)ことが求められている。例えば、李氏は、法輪功学習者は「攻撃されても反撃しない、侮辱されても口答えしない」ことに加えて、「貪欲、欺瞞、嫉妬などの否定的な思考と行動を放棄しなければならない」と規定している。

 

●嗜好品

法輪功の教えには、喫煙とアルコールの消費を禁止するという禁則が含まれている。これらは、健康と精神的な明晰さにとって有害な依存症と考えられている。

 

●動物

法輪功の修煉者は、食物を得るために動物を殺すことを禁じているが、菜食は必須ではない。普通の生活を送っていれば全く肉も魚も食べないといわけにはいかない。これはだめ、あれはだめとこだわりすぎる事自体が執着心なのだから、気にしすぎないこと。ほどほど。

 

●名声

これらのことに加えて、法輪功学習者は様々な世俗的な執着と欲望を捨てなければならない。法輪功の修煉者は、修煉の過程で、名声、金銭的利益、感傷、不倫を放棄することを目指している。

 

●物質や金

李氏の教えは、物質的な追求の空虚さを繰り返し強調している。法輪功の修煉者は、仕事を辞めたり、お金を捨てたりすることを奨励はしてないが、これらのものに対する心理的な執着を手放すことを期待している。

 

●性欲

同じように、性欲と欲望は捨てるべき執着として扱われるが、法輪功学習者は一般的に結婚して家庭を持つことを期待されている。

 

●同性愛

同性愛者やレズビアンでも法輪功を修煉することができるが、同性愛の行為は業力(カルマ)を発生させると言われており、法輪功の修煉とは相容れないと考えられている。

 

●異民族交流

法輪功の宇宙論には、異なる民族がそれぞれの天と通信しているという信念が含まれており、混血の個人はこの天との通信を失ってしまいがちだという。

 

しかし、李氏は、混血であることは個々の魂に影響を与えず、修練の能力を妨げるものではないと主張している。法輪功は、異民族間の結婚に反対する正式な姿勢はなく、実際、多くの法輪功学習者は異民族の子どもを持っている。

 

●政治

法輪功の教義は、政治や社会問題に参加することを禁止している。政治への過度の関心は、世俗的な権力と影響力への執着とみなされ、法輪功はそのような追求を超越することを目指している。胡平氏によると、「法輪功は、個人の修練を通じた浄化のみを目的とし、社会的、国家的な問題には触れない」という。

エクササイズ


法輪功は、その道徳哲学に加えて、4つの立位エクササイズと1つの座位瞑想で構成されている。これらの運動は、道徳性を高めるのための二次的なものと考えられているが、法輪功の修練において欠かせない要素でもある。

 

最初のエクササイズは「千の腕を伸ばすブッダ」(Buddha Stretching a Thousand Arms)と呼ばれるもので、体中のエネルギーの自由な流れを促進し、経絡を開くことを目的としている。

 

第二のエクササイズである「法輪立法」(Falun Standing Stance)は、車輪を持つように四つの静止したポーズを長時間維持する。このエクササイズの目的は、「知恵を高め、力を高め、人のレベルを上げ、神の力を強める」ことである。

 

第三のエクササイズである「宇宙の極限を貫く」(Penetrating the Cosmic Extremes)では、三組の動作を行い、悪いエネルギー(病原性のある気や黒気など)を排出し、良いエネルギーを体内に吸収できるようにすることを目的としている。この運動を実践することで、修行者は身体を浄化する。

 

第四のエクササイズである「法輪宇宙軌道」(Falun Cosmic Orbit)は、エネルギーを全身に自由に循環させようとするものである。

 

第一から第四のエクササイズとは異なり、第五のエクササイズは蓮華座位で行われる。「超自然的な力を強化する」(Reinforcing Supernatural Powers)と呼ばれるこの瞑想は、できるだけ長く維持することを目的としている。

 

法輪功は、世界70カ国以上の公園、大学のキャンパス、その他の公共空間でグループでエクササイズを公開実践しおり、ボランティアが無料で教えている。

 

5つのエクササイズに加えて、2001年に別の瞑想活動として、精神的な面での圧迫を軽減させる  「正しい思考の送信」(sending righteous thoughts)と呼ばれる瞑想法が導入された。

 

6人の法輪大法学習者による遺伝子研究を含む社会実験で、正常な健康な人と法輪功学習者を比較すると、エクササイズには免疫力の強化、細胞代謝のダウンレギュレーション、アポトーシス遺伝子の変化、炎症の迅速な快復があるという結果が出た。

超能力が獲得できる?


法輪功の教えによれば身体的な面で健康が維持できるだけでなく、修練者は道徳的な修練、瞑想、実践を組み合わせることで超自然的な能力を身につけることができるとされている。これらは、たとえば予言テレパシー、透視、第三の眼の開眼などのいわゆる「超能力」の獲得も含まれるが、それだけに限定されるものではない。

 

しかし、法輪功は、これら超能力や健康は道徳的な実践の結果として得られるものでありと強調しており、超能力や健康を追求したり、何気なく人に宣伝してはならないと話している。

 

デイビッド・オーナービー氏によると、法輪功は「自分の能力を誇示したり、自慢したいという願望は、危険な執着の印である」と教えており、李氏はそのような力の追求に気を取られないように信者に警告している。日本のインタビューで李はこのように話している。

 

「はっきりいって、我々は「病気治療」とか「健康保持」などといった現世の御利益みたいなことは、絶対に標榜しないことにしているのです。その代わり本当に修練を積んで、心性を高め、より高い次元に昇ろうと志している人々に対しては、「丹田」(Dantian)に法輪を植えてあげるとか、全く相手を差別することなく、私は何でもしてあげます。そして、その結果、必ずといっていいくらいそのような「修練者」(プラクティショナー=ディサイプル)の健康状態は良くなり、結果的に病気も治っていきます」(李洪志インタビューより

法輪功学習者の数


1999年7月以前、公式の推定では、法輪功学習者の数は全国で7000万人で、共産党の会員数に匹敵するとされていた。

 

1999年7月22日の迫害時には、中国政府の数字では、法輪功の人口は200万人から300万人とされていたが、一部の出版物では4000万人と推定されていた。

 

同時期の多くの法輪功の推定では、中国の修煉者の総数は7000万人から8000万人とされている。他の情報筋によると、中国の法輪功学習者数のピークは1000万人から7000万人と推定されている。

 

現在も中国で修煉している法輪功学習者の数を確認するのは難しいが、数千万人が民間で修煉を続けているとの情報もある。

 

1998年に中国で行われた人口統計調査では、人口の多くが女性と高齢者であることがわかった。調査した34351人の法輪功学習者のうち、男性は27%、女性は73%だった。

 

法輪功には、若い大学生から官僚、知識人、党幹部まで、様々な人たちが参加している。1990年代に中国で行われた調査では、修練者の23~40%が大学または大学院レベルの学位を持っていることが判明しており、これは一般人口の何倍もの高さである。

 

法輪功は、中国国外では数万人、場合によっては数十万人が修煉している。最大のコミュニティは台湾、またニューヨークやトロントなどの中国人人口の多い北米の都市である。パルマー氏とオウビー氏によるこれらのコミュニティの人口統計調査では、修煉者の90%が中国人であることが判明した。

 

平均年齢は約40歳で、回答者のうち女性56%、男性44%、既婚者80%だった。調査では、回答者は高学歴であることが判明した。9%が博士号、34%が修士号、24%が学士号を取得していた。

 

法輪功に惹かれた理由としては、知的内容、修練、健康上の利点などが最もよく報告されている。

 

法輪功を実践するアメリカの名門大学の博士号を持つ中国の科学者たちは、現代の物理学(超弦理論など)と生物学(特に松果体の機能)が法輪功の信念に対して科学的根拠を与えていると主張している。

 

彼らの見解では、「法輪大法は宗教というよりも知識であり、信仰というよりも科学の新しい形である」としている。

オーストラリアのシドニーで瞑想をする法輪功修練者。
オーストラリアのシドニーで瞑想をする法輪功修練者。

中国による法輪功の弾圧運動


(詳細は法輪功の迫害ページへ)

法輪功迫害は、国家無神論の教義を維持する中国共産党が1999年に始めた中国における法輪功学習者を排除するための反宗教運動である。

 

中国共産党による多面的なプロパガンダ、強制的なイデオロギー変更、再教育のプログラム、恣意的な逮捕、強制労働、身体的な拷問などのさまざまな非合法的な強制的措置が特徴で、最悪の場合は死に至ることもある。

 

法輪功は、ゆっくりとした動きの運動と瞑想を組み合わせた現代的な気功であり、誠実さ、思いやり、寛容さ(真・善・忍)を中心とした道徳的な哲学を実践する気功教室である。李洪志が1992年5月に吉林省長春市で創始した。

 

1990年代の急成長期を経て、共産党は1999年7月20日に法輪功を「根絶」する運動を開始した。

 

法輪功迫害を指導するため、「6-10官庁」と呼ばれる臨時機関が設置され、国家メディア機関、司法、警察、軍隊、教育システム、家庭、職場などを動員して法輪功への圧力を始めた。特に、テレビ、新聞、ラジオ、インターネットを通じたあらゆるメディアを通じて大規模なプロパガンダによって実行されている。

 

海外の政治学者たちは、数十万人、おそらく数百万人の法輪功学習者が、精神的な修煉を放棄することを拒否したために、労働再教育、収容所、刑務所、その他の収容施設に収容されていると推定している。

 

元受刑者の報告によると、法輪功学習者は労働収容所で一貫して「最長刑期と卑劣待遇」を受けており、いくつかの施設では、法輪功学習者が被収容者のかなりの大部分を占めている。

 

2009年の時点で、少なくとも2000人の法輪功学習者が迫害運動の中で拷問されて死亡したと報告されている。一部の国際的政治学者と司法当局は、法輪功に対する弾圧運動を大量虐殺と表現している。

 

2009年、スペインとアルゼンチンの裁判所は、中国の高官たちが法輪功の弾圧に関与したとして、大量虐殺と人道に対する罪で起訴した。

 

2006年、中国の臓器移植産業に供給するために、多くの法輪功学習者が殺害されたという疑惑が浮上している。最初の調査では、「2000年から2005年までの6年間に行われた4万1500人分の臓器移植の出所が不明である」とし、「改革しない法輪功学習者からの大規模な臓器摘出があり、現在も続いている」と結論づけた。

 

イーサン・ガットマン氏によれば、2000年から2008年までの間に、6万5000人の法輪功学習者が臓器摘出のために殺されたと推定している。

 

2008年、国連特別報告者は、「中国政府は、法輪功学習者から生きたまま臓器を奪った疑惑と、2000年以降、中国で急増している臓器移植の原因となった臓器の供給元について、十分に説明するように」との要請を繰り返している。

2001年、天安門広場で警察に逮捕された法輪功学習者
2001年、天安門広場で警察に逮捕された法輪功学習者

法輪功は宗教なのか?


中国の文脈では「宗教」ではなく「修煉」である


学者たちの多くは法輪功に対して新興宗教と説明している。法輪功は「新興宗教運動」のハンドブックにもよくに紹介されているが、学習者たちはこの言葉を否定している。

 

法輪功は多面的な修練であり、健康増進のための運動や自己変革の実践道徳哲学新しい知識体系にいたるまで、人によって異なる意味を持っている。

 

中国の文化的文脈では、法輪功は一般的に気功の体系、または「修煉」(xiulian)の一種であり、個人が肉体的、道徳的な条件付けを通じて精神的な完成を求めるプロセスとされている。

 

「修煉」とはコトバンクによれば人格、技術、学問などを磨き、きたえることであり、合気道、剣道、柔道などのスポーツの道場や塾、教室などようなもので、法輪功は気功に関する道場や塾のようなものである。

 

修煉とは日本人にとって馴染みがない言葉だが、仏教、道教、儒教の伝統にまたがる中国の歴史の中ではさまざまな修煉が見られる。ベンジャミン・ペニー氏は、「法輪功を説明するのに最も適した方法は、修煉体系である」と書いている。気功の修練は、より広範な「修練」の伝統の一部として理解されている。

「修煉」は「宗教」と何が違うのか?


人権団体は法輪功の迫害を信教の自由の侵害として報告しており、2001年、法輪功はフリーダムハウスから国際宗教自由賞を授与されている。しかし、法輪功学習者自身はこの「宗教」という分類を否定することもある

 

こうした食い違いが出るのは、現代中国における「宗教」(宗家)の定義が比較的狭義であるためである。デビッド・オウビーによると、中国における宗教は1912年以降、「よく発達した制度、聖職者、テキストの伝統」を持つ「世界史的な信仰」、すなわち仏教、道教、イスラム教、プロテスタント、カトリックを指すと定義されてきた。

 

法輪功にはこれらの特徴がなく、寺院、礼拝の儀式、聖職者、正式なヒエラルキーがない。さらに、もし法輪功が中国で宗教と名乗っていたら、すぐに弾圧されていただろう。

 

このような歴史的、文化的状況にもかかわらず、法輪功はしばしば中国の宗教の一形態として表現されてきた。

 

シュレヒター氏によると、法輪功は「宗派」や「カルト」の定義を満たしていないという。宗派とは、一般的には、確立された信念体系や主流の教会の枝分かれや宗派と定義されている。法輪功は仏教と道教の思想や用語を取り入れているが、実際にこれらの宗教との直接的な関係や血統的なつながりはないと主張している。

 

社会学者は、宗派、明確に定義された境界線の中に存在する排他的なグループであり、入会のための厳格な基準と厳格な忠誠心を持っていると考えている。しかし、法輪功にはそもそも会員制度がなく会費もなく宗派のような厳しい入会条件がない学習サークルのようなものである。

「法輪功」は日本のオウム真理教のようなカルト集団とは全くもって非なるものであって、整然たるピラミッド型の「組織」らしきものはないのです。

 

ひと昔前までのピラミッド型社会では想像もできなかったことですが、これから21世紀のネットワーク型社会では、「組織」という概念ですら全く異なったものに変容しつつあるのです。

そうはいっても、1億を超えるといわれる巨大な学習者がいるのであれば、それなりの維持費が必用だろうとのことだが、李洪志のインタビューによれば

経費がかかるのは私が現在住んでいるニューヨーク周辺だけで、著書やオーディオ&ビデオ・テープなどの印税だけで充分まかなえる。現代のようなサイバー・システム社会では、昔とは比較にならないくらい少ない人間と経費で1億人以上もの人々に法を伝えたり、新しい情報を伝達することが可能なのです。その最もたるのは「インターネット」ですが、パソコン1台あれば、実に安いコストで世界中と連絡を取ったり、情報を受けたり送ったりできるわけです。しかも、我が法輪功のメンバー、特にアメリカのメンバーには高学歴でコンピューターなどの電子機器を自由自在に使いこなせるボランティアが沢山いますから、ホームページのメンテナンスにも全くコストがかかりません。

と話している。こうしたことからノア・ポーターが指摘したように、法輪功はこれらの性質を共有しておらず、サークル・教室・セミナーやインターネットのフラッシュモブとほとんど変わらないものである。

 

チェリス・シュンチン・チャン氏も同様に、法輪功は「断固として宗派ではない」と書いている。修煉者は世俗社会との結びつきを断ち切ることはなく、「ゆるやかに構成されており、他の組織や信仰に寛容」であり、集団的な礼拝よりも個人的な礼拝を重視している。 

修練者同士の行動規範


法輪功は「形のない」ものであることを意図しており、物質的な組織や形式的な組織はほとんどない。法輪功の修煉者は、修練者からお金を集めたり、料金を請求したり、ヒーリングを行ったり、他の人に教義を教えたりすることはできない。

 

気功のための稽古場はあるが管理者や役人はおらず、会員制度もなく、教会や物理的な礼拝所もない。法輪功学習者は、実際に修練者とコミュニケーションをとらなくても、誰でも自分自身を「修練者」と名乗ることができる

 

そして、自由に修行に参加し、その教えに好きなだけ、あるいは好きな量だけ学べる。しかし、修練者は他の修練者に何を信じ、どのように行動すべきかを指示することはない

 

霊的な権威は、創始者である李洪志の教えにのみ与えられている。しかし、組織的には、法輪功は分散化されており、地方の支部と補助者には、特別な特権、権限、称号は与えられていない。

 

 

法輪功の組織は全体主義的な統制に反しており、李氏は修煉者の個人的な生活に介入しない。また、法輪功学習者は、李氏の教えを研究する以外、李氏との接触はほとんどない。

 

法輪功には正統性を強制するヒエラルキーがなく、教義的な規律もほとんど重視されていない。

 

唯一強調されているのは、厳格な道徳的行動の必要性だと、宗教学の教授であるクレイグ・バーグドフ氏は述べている。

 

法輪功の組織化は、グローバルでネットワーク化された大部分がバーチャルなオンラインコミュニティによって達成される。特に、電子通信、電子メールリスト、ウェブサイトは、活動を調整し、李洪志の教えを広めるための主要な手段となっている。

テキスト


1993年4月、法輪功の教えの最初の本が出版された。『中国法輪功』または単に『法輪功』と呼ばれるこの本は、気功、法輪功と仏教の関係、修養修練の原則、徳性(心性)の向上について論じた入門書である。また、演習や瞑想についても図解を交えて解説している。

法輪功の教えの主要な部分は、1995年1月に中国語で出版された『轉法輪』という本に明記されている。この本は9つの「講話」に分かれており、過去3年間に中国各地で行われた講演を編集して書き起こしたものである。 法輪功のテキストはその後、さらに40カ国語に翻訳されている。 これらの中心的なテキストに加えて、李氏はいくつかの本、講演、記事、詩集を出版している。

法輪功の教えは、中国の未翻訳の宗教用語や哲学用語を多用しており、中国の民間文学の登場人物や事件、中国の大衆宗教の概念を頻繁に引用している。これは、李氏の演説の口語体を模したリテラルな翻訳スタイルと相まって、西洋人にとって法輪功経典に近づくことが難しいものとなっている。

法輪功を知るためのキーワード集


●法輪

仏教で言う「法輪」(世の中の悪を打ち砕く輪宝=戦車)とは異なり、法輪功のでは「ぐるぐる回る宇宙の縮図」のことを指す。法輪は、宇宙のすべての功能を備えており、自動的に運行し、回転することができる。具体的には本当に修練したいと願う人の下腹部の丹田に李洪志が直接植え付けたあと、永遠に回転し続ける、と考えられている。法輪は、時計回りに回転するとき、自動的に宇宙からエネルギーを吸収し、自らそのエネルギーを「演化」(発展、転化)して、修練者の身体のあらゆる部分に演化に必用なエネルギーを送り込む。そしてまた、法輪は、時計の逆に回転するとき、エネルギーを放出する働きをして、修練者の体内から廃棄物質を外に押し出して、周囲に散逸する。しかも、放出されたエネルギーによって周りにいる人々が恩恵を受ける場合もあり、仏家は己を済度するとともに、衆生を済度することもできる。すなわち、知らないうちに、他人の身体をも浄化し、病気を治してしまうこともあるのだ。

 

●丹田

丹田(たんでん)というのは、へそから少し下に位置している。会陰のツボより上、下腹部の下にあるのが田で、功、功能、佛体などの数々の生命体は、いずれもこの田で生まれる。ここに意念を集中すると、たとえば生まれでた佛体は徐々に大きくなり、ピンポン球ほどの大きさになって、はっきり見えるようになる。また、李洪志師は法輪をこの丹田にしか与えないという。この丹田に李洪志が法輪を与えると、おびただしい法輪が回転しているのが見える人もいる。

 

●永久回転

法輪は、自動的に宇宙からエネルギーを吸収して、永遠に回転し続け、決して止まることはない。なぜ、そのようなことが可能なのか?現代の人類の科学水準ではとうてい理解できないから迷信だなどという人もいるが、銀河系も、太陽系も、地球も、月も、この宇宙にあるものはすべて何ものかの偉大な力に衝き動かされて、一瞬も停止することなく回転し続けているのだ。それは、そのような「旋機」(旋転するべての機構)になっているからほかにならない。したがって、ひとたび法輪を体内に植え付けられた人(修練者)は、行住坐臥、たとえ会社に出勤しているときですら、絶えず「煉功」し続けていることになる。つまり、「功が人を煉る」もしくは「法が人を煉る」状態になっているのである。

 

●修練

宇宙の至高の特性である「真・善・忍」を求めて真剣に『法輪大法』を学び、真の「煉功者」としての自覚を持ち、執着心を捨てること。すなわち、不断の努力をもってあらゆる執着心を取り除くことこそ「修練」のすべてなのである。常人の社会においては、人々は奪い合ったり、騙し合ったり、個人のわずかな利益のために傷つけあったりすぐが、このような執着心をすべて捨て去るところから本当の修練が始まる。

 

●真・善・忍

宇宙の中の善悪を判断する基準、それが「真・善・忍」である。人類社会の道徳標準のようなものは、時代や環境により絶えず変わるが、この「真・善・忍」という宇宙の根本原理は常に不変であり、「善い人」と「悪い人」を量る絶対的な基準はこれしかない。修練者は、常にこの宇宙の特性(真・善・忍)に照らして自己を律しなければならず、この基準に従って行動しなければならない。

 

●徳

「徳」は、一種の「白い物質」で、これまで考えられてきたような精神的なものではなく、完全に物質的なものではなく、完全に物質的な存在である。そして、この「徳」が身体の周りに磁場を作っており、その量が多ければ多いほど、より素晴らしい師に出会うチャンスが大きく、修練がしやすくなり、より高い功が得られるのである。

 

●業力

業力とは一種の「黒い物質」で、悪事を働いたり、善くないことをしたり、他人をいじめたりしたときに蓄積されるもので、一般には「カルマ」とよばれている。

 

●法輪大法

法輪功の根幹となっている「仏法」の教えで、宇宙の真相につながる最も玄妙かつ超常的な科学である。仏教の経典や道教の教えなども「仏法」の一部ではあるが、それ自身ではあり得ない。法輪大法の説く仏法とは、粒子や分子から宇宙まで、最も小さいものから大きいものまで、すべての奥義についての洞察であり、これに含まれないものや洩れるものは何一つしてないのだ。『法輪大法』は、仏家8万4千法門の一法門で、創成以来81回目にあたる現在の人類の文明社会では、いまだかつて公に伝えられたことはない。しかし、先史文明のある時期においては広範にその時代の人を済度したことがあるのだ。

 

●覚者

修練を通じて、「悟り」を開いた人。修練を重ねると「超能力」(功能)が生じてくる。現在、世界では6種類の超能力(いわゆる六神通)しか認められていないが、李洪志に言わせると、「本能の功能は1万種類以上ある」という。具体的には予知、テレパシー、透視、宿命通(人の将来や過去がわかること)このような超能力を身につけているものを大覚者といわれる。

 

●天目

「天目」とは文字通り「天(宇宙=神)から与えられた目」のことで、英語圏の弟子たちには「ザ・サード・アイ」(第三の目)と説明されている。両眼の上部に現れる超常現象的な「心の目」である。

 

●仏教と佛法

法輪功が説いているのは、「佛法」であって「仏教」ではない。確かに釈迦牟尼の教えである「仏教」も「佛法」の一部ではあるが、その全てではなく、「佛法」はより広くより深い「宇宙の真理」(真・善・忍)全体を包括したものなのだ。すなわち、宇宙の最も根本的な特性である「真・善・忍」をめざすこと、これこそ「佛法」の最高の体現である。

 

●道家と仏家

道家は、「真を修め、心性を養う」ことを重んじ、真実のことを話し、嘘偽りのない行動をし、正直な人間になって返本帰真し、最後には修煉が成就して「善人」になることをめざしている。すなわち、「真」を重点的に修煉しようとしているわけだ。

仏家は、「善」を重点的に修煉している。善を修煉すれば大いなる「慈悲心」が生まれ、すべての衆生を済度しようという願望をもつことができるようになるからである。

しかし、それらはあくまでも宇宙の最高特性の一部にしか過ぎず、「佛法」のすべてではない。『法輪大法』という法門は、「真・善・忍」に基づいて同時に修煉するので、道家や仏家を遥かに超えたより広範で深遠な「功」を積むことができる。

 

●生命

人間の生命は、この世の汚濁にまみれた「常人」の社会から生まれたものではなく、はるかに高い次元の「宇宙」空間において生み出されたものである。「宇宙」には、生命を創るさまざまな物質が沢山存在しており、それらの物質が相互に働きあうことによって「生命」が誕生するのである。すなわち、人間の生命は「宇宙」そのものに起源を持っている。

 

●宇宙

宇宙は、「真」「善」「忍」という最高の特性を持っており、本質的に善良なものである。

 

●人間

人間も、生まれたときは一個の生命体として「宇宙」と同じ特性を持っており、無垢の状況下では本質的に善良な存在であったはずだ。しかし、生命体の数が多くなり、その集団に社会的な関係ができると、その成員の中の一部の人々が次第に利己的な性向を強めていくようになり、必然的に本来の高い次元(宇宙次元)にとどまっていられなくなり、どんどん低い次元に堕ちていってしまう。そして、このようにして下へ下へと堕ちて行った結果が、「常人」すなわち「修練しない普通の人」からなる現実の人類社会なのだ。

 

●人類社会

現存の人類社会(常人社会)は、生来善そのものであったはずの人間が、その社会的しがらみや利己心、執着心などのためどんどん低い次元に堕落して行き、その最低レベルに置かれているのだ。本来ならば、このような社会は当然消滅させられて然るべきものである。しかし、大覚者たちがその慈悲心により、もう一度だけ「より高い次元」に立ち戻る機会を与えたため、滅亡寸前ではあるが、辛うじて生き延びているという、今日の極めて特殊な環境と空間を維持することが許されているのだ。

 

●返本帰真

堕落しきった現存の人類社会に生きている生命体、すなわち普通の人間にはより高次な宇宙の生命体が見えず、また宇宙の真相も見えないので、さまざまの業や病にとりつかれて悩み苦しんでいるのだ。したがって、病気の快復や災難の回避、業力の消去などを願うものは、すべて「返本帰真」すなわち宇宙次元への回帰と真・善・忍という最高の真理を求めて、ひたすら修練を積まなければならないのだ。常人」という最低レベルから抜け出してより高い次元に昇華しようとひたすら努力し精進すること、それ以外に「返本帰真」の道はなく、それこそが『法輪大法』のいう本当の「修練」なのである。

 

●佛法と迷信

「超常的な科学」などというと、その深さを理解し得ないものは、すぐに迷信だなどというレッテルを貼りたがる。しかしこの宇宙には現代科学の力ではとうてい理解できないことがまだまだ沢山あり、自分の知識では理解したり認識できないことをすべて「迷信」だなどといって切り捨てるのは、常人の傲慢さや愚かさを示す以外のなにものでもない。佛法と迷信は似て非なるものである。「佛法」は、人類が「無限の世界」を洞察するための唯一無二の法であり、先史時代の昔から、人類のことをはじめ、物質的存在の各空間、生命および宇宙全体のことを完全無欠に説明できるのは、「佛法」しかなかったのだ。

 

●生老病死

佛法によれば、常人の世界のことにはすべて「因縁」の関係がつきまとっており、より高い次元をめざして修煉しなければ「生老病死」から解放されることなどあり得ない。すなわち、以前に悪事を働いたために生じた「業力」のせいで病気になったり難儀に遭ったりしているわけで、苦しみを味わうということはとりもなおさず「業を返す」ということであるから、何人といえどもそれを勝手に変えることはできないのである。勝手に変えるということは、たとえば借金を踏み倒してもよいということと同じで、さらなる悪事を積み重ねるのと同じことである。


■参考文献

・『信者一億人 法輪功の正体』角間隆

https://en.wikipedia.org/wiki/Falun_Gong、2020年4月26日アクセス