グラフィティ / Graffiti
許可なくドローイングやライティングをする行為
概要
グラフィティ(落書き)とは許可なく公共・私的空間の壁、またそのほかの平面上に芸術的表現の形としてドローイングやライティングを行う行為である。美術業界においてはストリート・アートと呼ばれる。
グラフィティは単純な文字の形態のものから複雑な壁画まで幅広く、その起源は古代エジプト、古代ギリシャ、そしてローマ帝国にまでさかのぼることができる。
近代になると、スプレー・ペイントやマーカーペンが一般的に使われるグラフィティの素材となり、また多くの異なるタイプやスタイルのグラフィティがあらわれた。現在最も急速に発展している芸術様式の1つである。
グラフィティは物議をかもす主題である。ほとんどの国では、許可なく土地に絵を描いたりマーキングすることは所有者や役所から器物損害行為と見なしている。グラフィティはギャングたちの掲示板として機能したり、ギャングたちのテリトリーのマーク付けを助長する行為にため処罰対象の罪である。
一方、グラフィティ・アーティスト、特に主流メディアに登場できない周縁的な芸術家たちは、公共の場での自身の芸術や政治的メッセージを表すため刑罰に対して抵抗している。
ジャン=ミシェル・バスキアの人生は、グラフィティに対する一般的な反応を主観的に物語っている。バスキアは警察に追われる身のストリート・アーティストして芸術キャリアをはじめ、その後、彼の絵画作品は1枚1億ドル以上で売買されまでにいたった。
現代のグラフィティ
現代のグラフィティはヒップホップ文化とフィラデルフィアとニューヨークの地下鉄のグラフィティシーンを由来とした無数の国際スタイルの影響を強く受けているが、それ以前にも20世紀にはほかにも多くの有名なグラフィティが存在している。
グラフィティは長い間、建物の壁、トイレ、線路の電車、地下鉄、橋などに描かれてきた。現代のグラフィティの文脈において最も古いものと思われるのは、1800年代後半ころから無線乗車で旅を続けるホーボーや鉄道労働者らが列車内に描いた「モニカー」である。これが現代のグラフィティにおける元祖とも言われている。
The Bozo Texinoのモニカーは2005年に『Who is Bozo Texino?』というタイトルでドキュメンタリー映画ともなった。
グラフィティの中には辛辣なものもある。第二次世界大戦時には戦争で廃墟となった場所に兵士たちがさまざまな落書きを残している。
また第二次世界対中とその後の数十年間、アメリカ軍の参加、根本的にはアメリカ大衆文化の浸透として「キルロイ参上」というフレーズを伴う落書きが世界中に広まった。
チャーリー・パーカーの死後すぐに「バード・ライブ」という言葉のグラフィティがニューヨーク中に現れはじめた。
1968年5月に発生した学生の抗議行動と一般ストライキにおいてパリで、グラフィティ、ポスターアート、ステンシルアートで表現された革命的、無政府主義的、状況主義的なスローガン、たとえば「 L'ennui est contre-révolutionnaire (退屈は反革命的である)」のようなさまざまなグラフィティが見られた。
また、アメリカでもグラフィティによるほかの政治的表現がごく限られて地域で一時的に見られるようになった。ヒューイ・P・ニュートンの「Free Huey」などが当時の代表的なグラフィティだろう。
1970年初頭に人気を博したグラフィティは「Dick Nixon Before He Dicks You」である。これは当時のアメリカ大統領ニクソンに対する若者たちの怒りを反映したものである。
ロックン・ロールとグラフィティ
ロックンロールにおいてグラフィティは重要なサブジャンルである。
20世紀の有名なグラフィティは、ギタリストのエリック・クラプトンが圧倒的なギター・プレイで話題になっていたころにロンドン郊外で書かれた落書き「CLIPTON IS GOD」である。このフレーズは1967年秋に地下鉄のイズリントン駅の壁にファンによって書かれた。その落書きした壁に犬が小便しているところを撮影された写真が話題を呼んだ。
ロックン・ロールブームの後、グラフィティは1970年代から始まる反体制パンク・ロックムーブメントと関係が深い。
Black FlagやCrassなどのバンドは、バンド名やロゴを広くステンシル型板で刷り出していた。また多くのパンクナイトクラブやスクワット、たまり場はグラフィティだらけだったのは有名であり、今も変わらない。
1980年代後半、パンクバンドのMissing Foundationのタグでもあった逆さまのマティーニグラスは、マンハッタン南部で最もよく見られたグラフィティの1つだった。
ヒップホップ文化へと広がるグラフィティ
1979年、グラフィティ・アーティストのリー・キュノネスとファブ・ファイブ・フレディは、画商のクラウディオ・ブルリの助力を得て、ローマでグラフィティのギャラリーを開設。
これは、ニューヨークに住む人以外の多くの人々にとって、グラフィティの芸術様式は初めての出会いだった。
また、ファブ・ファイブ・フレディと歌手のデボラ・ハリーとの友情関係は、ブロンディのシングル・レコード『ラプチャー』(クリサリス・レーベル,1981年)に多大な影響を与えた。
『ラプチャー』のミュージックビデオには、ジャン=ミシェル・バスキアをはじめ何人かのグラフィティ・アーティストが出演しており、当時のヒップホップ・シーンにおけるグラフィティ文化を一目で把握できる構成になっている。
また、チャーリー・エーハーンのインデペンデントフィクション映画『ワイルド・スタイル』(1983年)、初期のPBSドキュメンタリー『スタイル・ウォーズ』(1983年)は、「The Message」や「Planet Rock」などのヒット曲に付随するミュージックビデオに貢献し、ヒップホップのあらゆる面においてニューヨーク以外の場所で関心が高まりはじめた。
『スタイル・ウォーズ』はSkeme、DONDI、MinOne、ZEPHYRなどの有名グラフィティ・アーティストを紹介しただけでなく、ロック・ステディ・クルーのような初期ブレイクダンス・グループを映画で紹介し、サウンドトラックでラップを特集し、NYの新興ヒップホップ文化でのグラフィティの存在感を高めた。
NY警察に勤める多くの公務員はこの映画内容に問題があることを指摘しているが、『スタイル・ウォーズ』はまだ1980年代初頭の初期ヒップホップ文化で起こっていたことを描写した文化的価値の高い映画と認識されている。
ファブ・ファイブ・フレディとFutura 2000は、1983年のNYラップツアーの一環として、パリやロンドンへでヒップホップ・グラフィティを制作した。
ハリウッドではPHASE 2のようなライターに注目しはじめ、監修を依頼して『ビート・ストリート』(オリオン、1984年)のような映画を制作して国際的にヒップホップ文化とグラフィティを紹介した。
■参考文献
・Graffiti - Wikipedia、2019年6月26日アクセス