【社会解説】近代西洋サブカルチャーの歴史

近代西洋サブカルチャーの歴史

History of modern Western subcultures


ピンク・フロイド「原子心母」
ピンク・フロイド「原子心母」

20世紀


20世紀初頭


20世紀は多くのサブカルチャーが発生し、また消えていった。

 

20世紀初頭、現在のサブカルチャーのルーツにあたるものの大半は同じ思想やライフスタイルを持つ趣味がよく似た個々の非公式な集団だった。

 

ロンドンのブルームズベリー・グループが代表的なサブカルチャーの1つである。これは姉妹であるヴァネッサ・ベルと近代小説家ヴァージニア・ウルフと夫のレオナルド・ウルフ、小説家のE・M・フォースター、経済学者のジョン・メイナード・ケインズなどケンブリッジ大学出身の芸術家や学者たちによって結成された非公式な会合である。

 

他の第一次大戦前のサブカルチャーといえるものは、趣味人の小さな社会的集団、または芸術家や自由詩人たちの間のライフスタイルや哲学問題だった。

ロンドンの芸術や学者たちの会合「ブルームズベリー・グループ」。flowmagazineより。
ロンドンの芸術や学者たちの会合「ブルームズベリー・グループ」。flowmagazineより。

ドイツでは1896年以降、自由と自然環境に焦点を置いた青少年のムーブメントが発生した。ワンダーフォーゲルと呼ばれるもので、彼らは、社会の固定された規範から自由であろうとした。青少年ムーブメントはのちに現れるユースカルチャー(若者文化)という言葉の先駆けともいえる。

 

彼らは郊外の野原にでかけてギターを弾き、歌を歌った。そのうち、グループの緑の旗ができたり、男の子は半ズボンに、ニッカーボッカーのようなスタイルになり、のちに女の子も参加するようになった。

 

ヌーディズムのための最初の組織化されたクラブとして知られているフレリクトパークは、1903年にドイツのハンブルで始まった。

 

イタリアでは未来派と呼ばれる芸術運動や哲学が現れ、彼らは近代における「変化」「速度」「暴力」「機械」を賛美した。

 

●ユース・カルチャー

世界の大部分が騒乱の時代を迎えていた第1次世界大戦直前、子どもほど幼くないが、成熟した大人ほど成長していない言葉を指す言葉として、「ユース(若者)」という言葉がイギリスで使われるようになった。

ドイツの青少年グループ「ワンダーフォーゲル」,1930年 Wikipediaより。
ドイツの青少年グループ「ワンダーフォーゲル」,1930年 Wikipediaより。

第一次世界大戦


第一次世界大戦後(19141−1918年)後、ヘアスタイルに変化がおきた。戦時中、塹壕ではシラミやノミが寄生していため兵士たちは頭を剃らなければならなくなった。

 

その結果、短髪の男性は戦争の最前線にいたと思われたが、長髪の男性は平和主義者や臆病者と見られ、中には脱走の疑いをかけらることもあった。

 

芸術家の中には、中立にスイスへ行き戦争を避けるものがいた。チューリッヒの芸術家グループは、反戦、反芸術、芸術運動、未来派の暴力的姿勢のパロディとしてダダイズムを発明した。

1920年代


 

ユースカルチャーに属する若者たちは、自分たちの考えに基づいて行動することを選択した。ジャズを好み、ショッキング&アップテンポなムーブで熱の籠もったダンスを踊り、酒をあおり、(当時としては)露出の多い派手な衣服を好んだ。

 

●ジャズ

1920年代は、アメリカのジャズ音楽や自動車がヨーロッパのサブカルチャーの中心となり、社会的儀礼や階級制度のルールを破り始めた。ジャズは以前はおもに貧しい黒人に限定されていた音楽だったが、1920年代になると音楽の流行として一般大衆にまで広がった。

カーター&キング・ジャズ・オーケストラ,1921年
カーター&キング・ジャズ・オーケストラ,1921年

●犯罪サブカルチャー

アメリカでは禁酒令が発令され、飲酒行為がサブカルチャーとなった。その結果犯罪集団やギャングが組織化され密輸がエスカレートした。アメリカ南部ではメキシコとキューバが飲酒者に人気があった。

 

カナダでも一部の地域で禁酒令が出されていたが、ほとんどの場所でアルコールに飢えたアメリカ人がオアシスを求めて国境を越えて来た。それらの国からアメリカ合衆国に不法に輸入されるようになり、特にシカゴ市のように、禁酒法をごまかす者のための避難所として有名になった地域もあった。

 

飲酒サブカルチャーの規模は大きくなり、それに従って犯罪サブカルチャーやギャングも成長した。アル・カポネとその敵対者バグズ・モランなど、シカゴ市の最も悪名高いギャングの多くは、違法なアルコールの売り上げを通して、何百万米ドルもの大金を稼いだ。

 

さらに、さまざまな麻薬がアルコールの代替品として普及しはじめた。禁酒令が終了しても、アルコール、麻薬、ジャズといったサブカルチャーは消えず、またギャングも消滅することはなかった。

1930年代


●ヌーディズム

ドイツのヌーディスト運動は1920年代から顕著になってきたが、1930年代になりアドルフ・ヒトラーが政権を握ると、ナチスによる強制的同一化思想により抑圧された。

 

プライベート・クラブやキャンプ場という形式の社会的ヌーディズムは、1930年代にアメリカで初めて現れた。カナダでは、1939年頃にブリティッシュ・コロンビアにヌーディズムが現れた。

 

●スウィング・キッズ

ドイツではスウィング・キッズと呼ばれる若者たちが反抗心をシリアスに打ち出し、アフリカ系米国人の音楽を聴き、英語を話すことで、ナチス政権に挑んだ。 

 

●シュルレアリスト

芸術の世界では、シュルレアリストたちが彼ら独自のゲームや奇妙な行動で世界中に衝撃を与えてはじめていた。シュルレアリスムは同時に大きな芸術運動であり、他の芸術形式や政治運動のパロディでもあった。

 

シュルレアリスムはダダイズム出身のアンドレ・ブルトンとそのほかの芸術家たちによって開発された。ヨーロッパのさまざまな国に拠点を置いて活動したシュルレアリスムだが、ナチスが権力を握るとトラブルの運命に出くわした。当時のサブカルチャーや退廃芸術はほぼ完全に踏み消され、ヒトラー・ユーゲントに置き換えられた

●デッド・エンド・キッズ

北米では世界大恐慌が広範囲にわたる失業と貧困を引き起こし、その結果、思春期の若者の間で倦怠感に包まれるようになり、都市の若者ギャング、いわゆる"デッド・エンド・キッズ(チンピラ、非行少年、スラム街の子ども)"と呼ばれる表現が見られるようになった。

デッド・エンド・キッズ現象は、ポピュラーなイメージになって舞台や映画で描かれ一般大衆にも認知されるようになった。デッド・エンド・キッズ、イースト・サイド・キッズ、リトル・タフ・ガイズなどの映像シリーズが有名である。

 

デッド・エンド・キッズは1930年代から1950年代にかけて非常に人気があった。また、デッド・エンド・キッズはジャック・カービーやジョー・サイモンのキッズ・ギャング漫画内でもよく描かれた。

●Okies

1931年から1939年にかけて発生した砂嵐ダスト・ボウルの被害で、オクラホマ州やその周辺の地域に住む多くのアメリカ人家庭は被害を逃れるため大量の移民が発生した。

 

オクラホマ州からの移民だけでも少なくとも30万から40万の移民が発生した。全体では350万人の移民がアメリカ国内で発生し、多くはカリフォルニア州へ移った。

 

移民者たちは「Okies」と呼ばれ、他の州の当局から差別的な扱いを受けた。Okieとはオクラホマの居住者、原住民のことである。

 

彼らオクラホマ難民たちの逆境はフォークソング(ウッディ・ガースリーよる多くの歌を含む)や、ジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』、ヘンリー・フォンダ主演の映画に記録された。

1940年代


●亡命前衛芸術家

マックス・エルンストマルセル・デュシャンマルク・シャガールなど前衛的なアーティストは、第二次世界大戦の勃発後、ヨーロッパから亡命した。

 

これら亡命アーティストの多くはアメリカへわたり、ニューヨークでシュルレアリスムやアヴァンギャルドの実験的な表現を用いたサブカルチャーがアートの発展に貢献し、ニューヨークはアート・ワールドにおける新しい中心地となった。

 

●ズートスーツ

この頃、アメリカのファッションは移民や人種文化に関心を持つようになったギャングのファッションが親しまれるようになった。

 

カリフォルニアでは、ヒスパニック系の若者たちの間では、黒いドレスに身を包んだブラック・ウイドウズのような独特なズートスーツファッションが流行した。ズートスーツに身を包んだ二世在米メキシコ人(いわゆるチカーノ)の若者は、「パチューコ」(Pachuco)というオリジナルなカルチャーを発展させた。

 

パチューコ・サブカルチャーやメキシコ人としてのプライドの表現であり、自由の表現であった。しかし、局外者や年配のメキシコ人の移民にとってパチューコスタイルはギャングや犯人のシンボルでしかなかった。

 

1943年6月、ロサンゼルスに駐在する白人アメリカ人海兵が近くに住む二世在住のメキシコ系アメリカ人(チカーノ)の若者を襲った。なかでもズートスーツを着た若者が襲れた。それは、しばしば「ズートスーツ暴動」として知られるようになった。

●闇市

ヨーロッパでは配給制度のもと闇市が発展した。たとえば、服装は必ずしも合法的に手にいれたものではなく、物乞いや違法を含めた何らかの代替手段に依存しなければならなかった。

 

アメリカ軍がイギリスに到着したときに、闇市の売人たち(ワイルドボーイやSpivと呼ばれる)は、米兵のためにストッキンやチョコレートなどを販売しはじめた。こうした流れのなか必然的にサブカルチャーは「犯罪性」「勇敢さ」「大胆さ」「境遇」「抵抗」といったイメージを持つようになった。

 

第二次大戦中からズートスーツはフランスでも若者の間で、ザズウ(zazous)という名前でサブカルチャーとして広まりはじめた。若者たちは大きめな服や派手な服を着て、自分の個性を表現し、ジャズやビバップでダンスしていた。男性は大きな縞模様のラバージャケット、女性はミニスカート、縞模様のストッキング、ヘビーシューズを身につけ傘を持ち歩いていた。

 

●実存主義

一方、フランスの知識人たちの間は、パリのカフェ文化でジャンポール・サルトルやアルバート・カミュの実存主義思想を中心としたアカデミック・サブカルチャーが形成されていった。

 

●フォークソング

戦後アメリカでは、フォークソングカウボーイ・ミュージック(当時はヒルビリー・ミュージックとしても知られていた)が幅広いオーディエンスから支持を得て人気を集めはじめた。

 

田舎のジャズやブルースファンのサブカルチャーは、ジャズとブルースの要素を伝統的なカウボーイやフォークソングのスタイルと融合させ、ウェスタン・スウィングと呼ばれるカントリーミュージックのサブジャンルを作った。

 

また、ラジオの普及により1940年代からアメリカ全土にこうした音楽が広まりはじめた。ラジオはちっぽけなサブカルチャーの思想を広範囲に瞬時に伝えて巨大なサブカルチャーに成長させることができる最初のマスメディアだった。

 

●ビパップ

新しいジャズのサブカルチャー「ビバップ」は、マンネリ化したスウィング・ジャズに飽きた、あるいは、本来の即興演奏が好きなジャズの演奏家たちが、ライヴハウスや演奏主体の飲食店の閉店後に、ジャム・セッションをしていて、そこから発展し生まれた。

 

ビパップ・カルチャーにおける中心的な人物は、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーである。ビバップは、次に来るヒップスター、ビート・ジェネレーションのサブカルチャーを生み出す源泉となった。

 

1947年、ジャック・ケルアックはアメリカを横断する壮大な旅をした。この旅についてはのちに小説『On the Road』に描写されている。

 

●バイカー・ギャング

同年、カリフォルニア州ホリスターでオートバイ・ギャングが関わる事件があり、雑誌『ハーパーズ』はその事件に関する記事を掲載した。

 

1948年、ヘルズ・エンジェルスがカリフォルニア州フォンタナで設立された。これは、アメリカ合衆国で誕生した国際的バイカーギャングで、日本で言う暴走族にあたる

 

ヘルズ・エンジェルスは、終戦後の退屈な時代に刺激を求めたバイク・クラブを起源とし、時が経つにつれて悪名高いサブカルチャーとして知られるようになった。

1950年代


●ビート・ジェネレーション

フランスの実存主義者たちは戦後のサブカルチャーの発展に大きな影響を与えた。彼らの思想の根幹である「個人の自由」がアメリカやイギリスのビート・ジェネレーションに影響を与えた。

 

ジャンポール・サルトルとアルバート・カミュは戦時下のフランスにおけるレジスタンス抗戦運動を文化革命やアメリカで発生したビート・ジェネレーションの文脈につなげた。

 

ビート・ジェネレーションという語は、1948年前後に「ニューヨークのアンダーグラウンド社会で生きる非遵法者の若者たち」を総称する語として生まれた。戦後のアメリカの文化と政治を探求し、文学の作家たちによってはじまった文学運動だった。ビートニクと呼ばれることもある。

 

アレン・ギンズバーグの『ハウル』(1956)、ウィリアム・S・バロウズの『裸のランチ』(1959)、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』(1957)が代表的なビート文学である。彼らの作品の大部分は1950年代に出版され、広く普及した。

 

音楽ではビバップとジャズが好まれた。また、髭をたくわえ長髪にすることで2つの大戦以前の日常的な欧米人な姿に回帰し、ダークで機能的で庶民的な衣服を好み、競争社会からの逃避としての芸術作品を次々と生み出した。

 

ビート文化の中心的な要素は、標準的な物語の価値の拒否、精神性の探求、アメリカと東洋の宗教の探求、唯物論の拒否、サイケデリック・ドラッグ、性的解放と探求である。

 

この実存的なボヘミアニズムは1950年代から1960年代まで続き、以後は1960年代にヒッピーやカウンター・カルチャーに受け継がれた。また同時期に、アメリカの戦後の繁栄と新しいユース・カルチャーにおけるアイデンティティを示す言葉としてアメリカで「ティーンエイジャー」という言葉が発明された。

 

●ロックン・ロール

ジャズ文化はR&Bと融合してロックン・ロール文化に変化した。ロックンロールの起源についてはさまざまな意見がある。同時期、ジャズ文化自体は衰退せず続いてたものの、高尚な方向に変化し、野性味や犯罪的な臭いは消失して必ずしもサブカルチャーと関連するものではなくなりつつあった。

 

●社会学としてのサブカルチャーの誕生

1950年代以降、ニューヨークではストリート・ギャング文化、目的不明の破壊行為、落書き(グラフィティ)が目立ちはじめた。

 

社会学者、心理学者、ソーシャルワーカー、裁判官はたちはそれぞれこれらの都市犯罪の増加の原因の理論を探っていたが、のちに高齢白人主義者のマイノリティに対する態度への反抗が結論となった。

 

一般的な総意においては、現代都市環境は現代世界のあらゆる点でメリットをもたらすものとされているが、現実において労働者階級の若者にとってはほとんど何も良いことはなかった。1957年の演劇『ウエストサイドストーリー』など当時のニューヨークの社会的背景と少年非行グループの世界を描写している。

 

ユース・サブカルチャー、ティーンエイジャー・サブカルチャーの出現を取り巻くモラル・パニックや思春期の青少年の犯罪性の増加は、少年非行に関するアメリカ合衆国上院小委員会のような若者の行動を調査や法律で罰する組織などを設立するきっかけとなった。

 

●グレイサー

ストリートバイオレンスに基盤にした多くのサブカルチャーの1つはグレイサーである。1950年代から1960年代のアメリカにおける労働者階級や下層階級の若者に人気があったユース・サブカルチャーである。

 

おもにイタリア系アメリカ人やヒスパニック系アメリカ人で構成されていた。彼らグレイサーはロカビリー、ロックンロール、バイカー・サブカルチャーらのライフスタイルに影響を与えた。

カナダ、ケベック州のグレイサー
カナダ、ケベック州のグレイサー

アメリカのロックン・ロールがイギリスに伝わると、イギリスでも急速にサブカルチャーが発展した。

 

●テディ・ボーイ&テディ・ガール

戦後、都市部の焼け野原周辺にたむろして軽犯罪に手を出していたストリートの若者たちは、ドレープスーツと呼ばれるゆるいシルエットのスーツにループタイ、ラバーシューズを身に着け、エルビス・プレスリーのようなオールバックにグリースをたっぷりつけたヘアスタイルを模倣するようになった。これらの若者はテディ・ボーイと呼ばれた。

 

テディ・ボーイは1950年代初頭にロンドンのティーンエイジャーを中心にはじまったとイギリス全土に広まった。また同時に、テディ・ガールも誕生し、彼女たちはペンシルスカートやロールアップジーンズ、フラットシューズなどを着用して保守的な社会に反抗した。

 

ズボンをはき男性的なファッションを取り入れたテディ・ガールや、女性のように髪型のセットに時間をかけるテディ・ボーイは当時の社会では完全に異質だった。

1950年代のイギリスのテディ・ボーイ。
1950年代のイギリスのテディ・ボーイ。
テディ・ガール
テディ・ガール

●派閥化するユース・カルチャー

イギリスの若者たちの間では、サブカルチャーに派閥ができはじめた。モダンジャズ、トラッド・ジャズ、ロックンロール、スキッフル・クレイズなどさまざまな派閥が作られ、またコーヒーバーはあらゆるタイプの若者の会合場所となり、最も渋いバーはロンドンのソーホーと言われた。

 

イギリスのビート・ジェネレーションでは政治的側面も見られCNGが率いる反核運動を展開していた。反核運動は非常に成功したイギリスの社会現象となった。

 

10代の音楽とサブカルチャーは1957年の演劇『ミュージックマン』でパロディ化され描かれている。この作品は1962年に映画化もされている。

 

アメリカとオーストラリアでは、ハワイの影響を受けたサーフィングが新しい若者のスポーツとなって流行りはじめた。サブカルチャー全体としてスポーツやパーティ、ファッション、話し方、音楽などが連結するように発展していった

 

サーフィングと並行するライフスタイルとして同時期にスケートボードが流行しはじめた。サーフィングもボードライディングも両方とも20世紀後半から現在まで続いている。これら2つのスポーツは若者独自の俊敏の能力の卓越性を発揮できる独自の社会構造を発信できることを証明した。

 

コンゴ自由国でビルと知られるユース・サブカルチャーが流行った。それはおもにアメリカ西部劇のカウボーイの衣装をイメージしたものだった。

 

オランダでは、アムステルダム、ロッテルダム、ユトレヒトなどの大都市で2つの若者グループが発展しました。1つはイギリスのテッズとよく似た「ノゼム」というグループで、もう1つは「アルティスティケリンゲン」と呼ばれる戦前のフランスで流行したボヘミアン芸術家をよく似たグループだった。

 

ノゼムはロックンロールを聴き、街をバイクで走り、女性をナンパした。アルティスティケリンゲンは哲学、ペインティング、ドローイングなどの美術、ジャズを聴くのを好んだ。

1960年代


メイン記事:カウンターカルチャー1960s

さらに詳しい情報:ヒッピー・ムーブメント

 

1960年代、ビートニクはさらに巨大なサブカルチャーに成長して、世界中に広がった。ほかに1960年代に発展したサブカルチャーにはラディカル、モッズ、ロッカー、バイカー、ヒッピー、フリークシーンなどがある。

 

ビートシーンからヒッピー間のおもな移行の特徴の1つは、ニール・キャサディやキン・キージーが率いたアメリカのヒッピー集団「メリー・プランクスターズ」によるサイケデリック調にペイントされたスクールバス「ファーザー」に乗車してのアメリカ横断ツアーである。アメリカでは、ヒッピーにおける重要な年は1967年で、それは「愛の夏」と呼ばれた。

サイケデリック調にペイントされたスクールバス「ファーザー」外観。
サイケデリック調にペイントされたスクールバス「ファーザー」外観。
サイケデリック調にペイントされたスクールバス「ファーザー」内部。
サイケデリック調にペイントされたスクールバス「ファーザー」内部。

●ルード・ボーイ

ルード・ボーイ・カルチャーが、ロックステディ・ミュージック、ダンスホール・セレブション、サウンドシステムダンスと絡み合いジャマイカのゲットーで始まった。ルード・ボーイたちは最新のファッションに身を包み、その多くはギャング行為や暴力行為に関与していた。

 

彼らのそのギャング&バッドなルックスと、素晴らしいサウンドは世界的な流行となり、1950年代から1960年代にかけて、西インド諸島の移民と共にイギリスに流入した。このサブカルチャーはイギリスやほかの国にも広まった。

 

ルード・ボーイカルチャーは、2トーン時代のバンド&ファン、初期スキンヘッズ、そしてモッドカルチャーのルックスと思考に大きな影響を与えることになった。

 

●モッズ

モッズ・サブカルチャーは、1950年代後半にイギリスのロンドンで少数のティーンエイジの少年たちの間ではじまったが、1960年代初頭にはイギリス中で人気になった。これまでのサブカルチャーに比べ産階級以上の若者たちが築いたサブカルチャーだった。

 

高い就職率を記録していた1960年代の英国で暮らしていた若者たちは裕福だった。そして、そのような彼らが金を注いだ対象がモッズで、サブカルチャーがビジネス対象になりはじめた。

 

モッズはスリムカットスーツといった新しいファッションを好み、音楽ではモダンジャズ、R&B、ソウル、スカ、ビート・ミュージックなどの音楽を好んだ。また、モッズの多くはスクーターに乗用していた。

 

モッズとルード・ボーイはどちらも1960年代後半のスキンヘッズ・サブカルチャーに影響を与えた。スキンヘッズは基本的なクリーンカットの服装を着こなし、スカ、ロックステディ、ソウル、初期レゲエ音楽を好む労働者階級のサブカルチャーだった。

モッズ・サブカルチャーのイメージ。
モッズ・サブカルチャーのイメージ。

ディスコシーンが1960年代に始まり、Whisky a Go GoやStudio 54などのディスコクラブが登場した。

 

●抗議運動

サブカルチャーに関わる若者は多くは、社交的で粗暴的なふるまいをする傾向にあったが、なかでも政治問題と関わりのあるサブカルチャーでよく見られた。アメリカではブラックパンサーズやイッピーなどが代表的なサブカルチャーだった。

 

アレン・ギンズバーグは同性愛者の権利を求める運動やベトナム戦争や核兵器に反対する運動などさまざまな抗議運動に参加した。1968年5月、フランスのパリで大学生の学生運動と暴動が起き、ジャン=ポール・サルトルと121人の知識人が学生を支援し、「反抗する権利を主張する声明」に署名した。

 

●ハッカー

ハッカー・カルチャーは1960年代に形成されはじめた。これは大学でコンピュータの利用が増えたためである。コンピュータやそのほかのテクノロジーの使用可能に魅了された学生は、テクノロジーをより個人が自由に利用できる方法を考えはじめた。

 

●ハプニング・フルクサス

アート・ワールドでは、ビート・サブカルチャーから発展した国際的なハプニングフルクサスの芸術運動も1960年代からはじまった。

イッピー党の旗
イッピー党の旗

1970年代


メイン記事:パンク

 

●フリークス

1970年代初頭、ヒッピー、モッズ、ロッカーのサブカルチャーは変容の過程にあり、一時的に総合的にフリークスと呼ばれていた。おおよそポスト・ヒッピーとプレ・パンクの時代のころを指す用語である。

 

フリークスとは「怪物」のことで、もともとアメリカでは差別的、嘲笑的な意味合いで使われていた言葉だが、サブカルチャーの間では逆に「フリークス的なものに誇りを持ち抱きしめよう」というポジティブな意味で使われはじめた。

 

フリークスたちの間では同性愛の合法化やSFファンタジーなどのサイエンス・フィクション文学への流行と相まり奇妙なカルチャー・シーンを生み出していった。

 

また、ロックフェスティバル、無料フェスティバル、ハプニングなどさまざまな種類の代替社会の集会・フェスティバルを開催した。エドガー・ブロートン・バンドやピンク・フェアリーズといったフリークバンドが主流の演奏会場に反発して無料フェスティバルでライブを行った。

 

フリーク・シーンにおける人気の音楽やファッションはグラムロックだった。グラムロックは1960年代のモッズの継続であったが、男性でも濃いメイクを施したり、煌びやかでけばけばしい衣装をまとい、のちの1970年代パンクの両性具有的な魅力も見られた。

 

●ギーク

ある時期から、ハッカー・コンピューターのサブカルチャーの一部は、フリークスたちと同じように、自身に誇りを持ち権威に反発する意味合いで自身たちをギークと呼びはじめた。

 

ギークとは、フリークス同様もともとはサーカスやパレードなどの見世物で、ヘビやニワトリを食いちぎったり、昆虫を呑み込んだりするパフォーマーのことを指し、「愚者」「嘲笑すべきもの」「騙されやすい者」といった侮蔑的な意味の語であった。

 

コンピュータの利用は、当時まだ一般の人々にとっては近づきがたい一部の人たちの世界だったが、SF小説に描かれたコンピュータに多くの人が関心を持つようになりはじめた。

 

いつかコンピュータを所有する夢は20世紀前半の少数のSFファン内だけで語られていたことだったが、1970年代ころになると従来のSFファンのみならず、ホラーファン、コミックファン、ファンタジーファンらにも広がった。

 

●スキンヘッド

1960年代後半からのスキンヘッド・サブカルチャーは1970年代まで続き、一部のスキンヘッドはパンク・サブカルチャーから影響を受けるようになった。

 

スキンヘッドは「オイ!」(Oi!) と関わりを持ち、白人至上主義的な極右的政治性も帯びはじめた。オイ!とは1970年代後半にイギリスで発生した、労働者階級に支持されたのパンク・ロックのサブジャンルのうちの一つである。

 

なお、1960年代に発生したオリジナルのスキンヘッドは黒人文化の影響を受けて発生したサブカルチャーである。極右性が特徴のスキンヘッド・サブカルチャーはのちにネオナチに受け継がれた

 

●ディスコの大衆化

当初、ゲイの黒人やヒスパニックの集まりだったディスコは、1975年ごろから一般の若者にも影響を与えはじめた。特にニューヨークにおいてはディスコが若者の生活のあらゆる面において中心的な役割を担い、アグレッシブなカウンター・ディスコブームが発生した。

 

一方でディスコミュージックや文化に対する激しい反発も起きた。WPLJやWPIXなどのニューヨークのロックラジオ局はリスナーにディスコレコードを破壊し、ロックを奨励した。

 

●パンク

パンク・ロックはディスコミュージック、プログレッシブ・ロック、ヒッピーなどのサブカルチャーに対する意図的なアンチテーゼだった。

 

パンク最盛期、パンクスは一般大衆や他のサブカルチャーから毛嫌いされ攻撃された。1980年代のイギリスでは、パンクスはテディボーイ、グリーサー、バイカー、モッズ、他のサブカルチャーのメンバーとしばしば小競り合いを起こした。

 

●ヘビーメタル

ヒッピー・サブカルチャーが衰退していくなかで、バイカーから派生した一部の集団が1960年代後半のホラー・バイオレンスなどの退廃的な世界観を引き継ぎ、ヘビーメタルを形成していった。メタルファンは長髪、1970年代後半のレザー(革)文化からのファッションを引き継ぎ、メインストリームに対して分離主義や正統性を主張する文化を形成した。

 

●ユーズネット

1979年、原始的なインターネット上の通信媒体としてユーズネット(ネットニュース)が作られた。ユーズネットと掲示板システム(BBS)のサブカルチャーは、以後数十年でますます重要に存在となっていった。

 

●サプール

また、1979年、アフリカのコンゴ共和国と今後におけるルンバのスターだったパパ・ウェンバが、サプールというサップファッション集団のリーダーとなり、世界中の若者の間で熱狂的なファンを生み出した。サップは衣服名を指し、サプールはサップを好んだ人々のことを指す。

 

サップは一年中気温30度を越す常夏の両コンゴにおいて1950年代から1960年代のパリ紳士の盛装に身を包み、街中を闊歩するスタイルのことである。高級ブランドのスーツに身を包み、帽子と葉巻やパイプ、ステッキなどの小道具とともに街を練り歩く。タキシードにシルクハットなどという装いのものもいる。中にはタータンキルトを着用する者もいる。

 

いつもアルマーニを着用していたジャン=ミシェル・バスキアのファッションはサップの影響が多分に見られる。

 

http://epokal.com/yellow_column/2964より
http://epokal.com/yellow_column/2964より

1980年代


●ニューロマンティック

1980年代初頭、過激化と保守化にうんざりしたパンク・ロックのファンの一部は新たな刺激と表現方法を模索しはじめた。

 

反動としてスタイリッシュでグラム的な要素が取り入れられるようになり、それらは1981年までにニューロマンティックへ発展を遂げた。彼らが好んだ音楽はシンセサイザーを多様したエレクトロップだった。

 

ニューロマンティックはほんのり通俗的で奇妙な雰囲気、ビジュアル的には個人の性的指向とは別に全体的に両性具有的な雰囲気を帯びていた。当時の音楽メディアによれば、ニューロマンティックは自分たちのアイデンティを表現するため、「未来派」や「名前のないカルト」など、いくつか代替用語を使っていた。

 

●ハードコア・パンク

ほかのパンク・ロックのファンはジャンルやカルチャーをさらにアンダーグラウンドへ移り、より高速でハードなロック、いわゆる「ハードコア・パンク」シーンを生成した。

 

ハードコアシーンと並行してストレートエッジ・サブカルチャーが生まれた。ストレートエッジとは、ロック音楽などにおける思想・概念・ライフスタイルであり、ハードコア・パンクのサブジャンルである。

 

煙草、アルコール、ドラッグ(特に覚醒剤などの向精神薬)に対する禁欲性を主張するライフスタイルで、それまでのロックの価値観だった「セックス、ドラッグ、ロックンロール」という享楽的な生き方に対するアンチテーゼと捉えられている。

 

さらに進んで「ヴィーガニズム(菜食主義)」「カフェインを摂取しない」「医師から処方されたものも含め、いかなる薬物も使用しない」という者もいる。

 

●ゴス

1979年頃に新しい方向を模索していた元パンクスたちは、最終的にゴス・サブカルチャーを生成する核となった。ゴスは暗めのドレスや退廃的なロマン主義を基盤としたサブカルチャーである。

 

短命に終わったニューロマンティックと異なりゴスは21世紀になっても続いている。イギリスではゴス・サブカルチャーは1980年代後半ころが人気のピークだった。

Gothic model Lady Amaranth
Gothic model Lady Amaranth

●ヒップホップ/ラップ

アメリカの都市では、アスレチック・ブレイクダンスと自由詩やセミスタッカート・ポエムが融合したストリート・カルチャーが、ヒップホップやラップの音楽とともに発展した。

 

ジャズの専門用語ではラップという言葉はもともと「スピーチ」や「対話」を意味するものだったが、この時代からラップはエリート主義の芸術形態からコミュニティ・スポーツへと移り代わり、ラッパーはお互いにリズムを作って響きの心地よさや美しさを作り出す押韻を競うようになった。ラップはMCingとも呼ばれ、ヒップホップを構成する4つのおもなカルチャー(DJ、ブレイクダンス、グラフィティ、ラップ)の1つである。

 

●レイブ/テクノ

フリー・パーティーレイブといったサブカルチャーが1980年代後半に生まれ、巨大なムーブメントへと爆発的に成長した。

 

このサブカルチャーで受け入れられた音楽は、ホアン・アトキンスやデリック・メイ、ケビン・サンダーソンらがデトロイトやシカゴで生まれたテクノから発展したエレクトロニック・ダンス・ミュージックである。

 

やがて英国や欧州からもその影響の下にオリジナルな音楽を作成するアーティストが多数現れた。

 

80年代の終わりころ、レイブ文化はアシッドハウスやアシッドジャズなどさまざまな形式に多様化し、90年代に入っても多様化を続けた。 レイヴ文化は、80年代半ばから世紀末、21世紀になっても繁栄した。

 

●サイバーパンク

ユーズネットやBBSなどのコンピューター・サブカルチャーは、社会的・反社会的両方の側面で彼ら独自のマナーや行動パターンを生み出した。荒らし行為、スパム、炎上などが代表的な現象である。また、コンピューター・サブカルチャーはサイバーパンク文学にも影響を与えた。

1990年代


ジェネレーションXとは、アメリカ合衆国において1960年代初頭または半ばから1970年代に生まれ(ベビーブーマー世代)のことで、1980年代後半から1990年代初頭に成人になった世代である。ダグラス・クープランドの小説『ジェネレーションX -加速された文化のための物語たち』が由来元である。

 

イギリスでは1960年代のモッズ、、1970年代・1980年代のモッズリバイバル、およびその他のイギリスのロックミュージックとサブカルチャースタイルの影響を受け、1990年代にブリットポップシーンが生まれた。

 

アメリカの西海岸では、ニルヴァーナ、サウンドガーデン、マッドハニーといったバンドがグランジと呼ばれるオルタナティブ・ロックスタイルを開拓し、サブカルチャーと連結して人気を博した。

 

1990年代の重要なテクノロジーの発展の1つはWorld Wide Web、インターネットの登場である。それまでの小さなサブカルチャーを大規模なグローバルオンラインコミュニティに成長することができるようになった。

 

オンラインゲームコミュニティ、フォーラム、チャットルーム、インターネットカフェが人気を博した。

 

1990年代には、反グローバリゼーション運動が台頭しました。 これは、グローバリゼーションとグローバル資本主義の加速に対する反発だった。 反グローバリゼーション抗議運動としてフェアトレード運動が行われた。