【異端医科学】ジャック・ケヴォーキアン「安楽死を奨励し実行したドクター・デス」

ジャック・ケヴォーキアン/ Jack Kevorkian

安楽死を奨励し実行したドクター・デス


概要


 

生年月日 1928年5月26日
死没月日 2011年6月3日
国籍 アメリカ
職業 病理学者

ジャック・ケヴォーキアン(1928年5月26日-2011年6月3日)はアメリカの病理学者、安楽死提案者、右翼活動家。

 

末期患者の「死ぬ権利」を尊重し、「死の幇助」を公に支持した人物として知られており、彼の「死ぬことは罪ではない」という彼自身の信念的な言葉をよく主張していた。

 

ケヴォーキアンは、彼の思想に基づいて少なくとも130人の患者を助けたという。1999年に殺人罪で有罪判決を受け、メディアではしばしば「ドクター・デス」というキャッチで紹介される。

 

しかし、彼の大義に対しては一定の支持があり、現在、彼は安楽死問題の改革のプラットフォームの確立に貢献している。

 

1998年、ケヴォーキアンはルー・ゲーリック病またはALSを患っていたトーマス・ユークという男性の自発的安楽死事件で直接的な役割を果たしたとして逮捕され、裁判にかけられた。第二級殺人罪で有罪判決を受け、10年〜25年の懲役刑がくだされる。服役8年目の2007年6月1日、直接自殺幇助への関与、公に自殺幇助や自殺を奨励しないことを条件で仮釈放された。

 

2011年に腎臓疾患の治療で入院していたミシガン州の病院で死去。

略歴


幼少期と学歴


ケヴォーキアンは1928年5月26日、ミシガン州ポンティアックで生まれた。幼名はムラド・ヤコブ・ケヴォーキアン。両親はトルコからのアルメニア人移民で、父レボン(1887-1960)はエルズルム近郊のパッセン村で生まれ、母サテニグ(1900-1968)はシヴァス近郊のゴヴドゥン村で生まれた。

 

父レボンはオスマン帝国時代にアルメニアを離れ、1912年ポンティアックに渡り、自動車の鋳造工場で働いていた。1915年のアルメニア人大量虐殺から逃れ、パリの親戚のもとへ避難するが、その後、ポンティアックに戻り兄と再会した。

 

レボンとサテニグは、市内のアルメニア人コミュニティを通じて知り合い、そこで結婚して家族を形成する。1926年に娘のマーガレットが生まれ、続いて息子のムラドが生まれ、3人目で最後の子供のフローラが生まれた。

 

子供のころ、両親はムラドを毎週のように教会に連れて行っていた。しかし、ムラドは神の存在に疑問を持ち始めた全知全能の神がいれば、自分の家族へのアルメニア人大量虐殺を防げたと信じていたからである。そして、12歳のときには教会に通うのをやめた。

 

ケヴォーキアンは神童だった。彼は6年生で中学に昇進し、ドイツ語、ロシア語、ギリシャ語、日本語など複数の言語を独学で学んだ。そのため、彼はしばしば仲間外れになった。

 

1945年に17歳でポンティアックセントラル高校を優等で卒業し、1952年にはアナーバーにあるミシガン大学医学部を卒業した。

 

ケヴォーキアンは解剖学および臨床病理学のレジデント研修を修了し、輸血に関する研究を短期間行った。

キャリア


死刑囚受刑者の臓器移植や輸血を提案


何十年にもわたり、ケヴォーキアンは死に関連したさまざまな物議を起こしてきた。1959年の雑誌記事の中で、彼は次のように書いている。

 

「私は、法の手続きによって死刑を宣告された囚人が、法律で定められた従来の方法の代わりに、完全麻酔下で(刑を執行するために指定された時間に)医学的実験を行うことを、彼自身の自由な選択によって許可することを提案します」

 

ケヴォーキアンの雇用主であるミシガン大学の上級医師たちは彼の提案に反対す。ケヴォーキアンは自身の提案を取り下げることはなく、辞職して大学を去ることを選んだ。最終的には、彼の提案に対する支持はほとんど得られなかった。

 

彼は、1976年のジョージア州グレッグ事件での最高裁判決で死刑が再導入された後、死刑囚を医療目的で利用するという考えに戻った。

 

死刑執行後の受刑者から臓器を取り出して病気の患者に移植することを提唱したが、刑務所関係者の協力を得ることができなかった。

 

ポンティアック総合病院の病理医として、ケヴォーキアンは最近亡くなった人の血液を生きた患者に輸血する実験を行った。彼は最近病院に運ばれてきた死体から血液を採取し、それを病院職員の体に移植することに成功した。

 

ケヴォーキアンは、米軍が戦闘中に負傷した兵士を助けるのにこの技術に興味を持っているかもしれないと考えたが、国防総省は興味を持っていないと否定した。

 

安楽死の提案と実行


 ケヴォーキアンは、1980年代にドイツの医学・法学誌「Medicine and Law」に連載し、安楽死の倫理についての考え方をまとめている。

 

1987年、ケヴォーキアンは「死のカウンセリング」の医師コンサルタントとしてデトロイトの新聞に広告を出し始めた。

 

1989年にアルツハイマー病と診断された54歳の女性、ジャネット・アドキンスが1990年に自殺したのは、彼の最初の公的な自殺幇助であった。

 

1990年12月13日、当時ミシガン州には自殺幇助に関する法律がなかったため、殺人の告訴は取り下げられた。しかし1991年、ミシガン州は医師免許を取り消し、彼の行動を考慮して、ケヴォーキアンに対して医学を実践することも、患者と関わることもできないようにする決定をくだした。

 

彼の弁護士ジェフリー・フィーガーによると、ケヴォーキアンは1990年から1998年の間に130人の末期患者の死を幇助した。

 

各事件では、患者自身が死の決定を下し、死をもたらす行動を取るようにしたと主張している。ケボルキアンは、彼が考案し、構築した安楽死装置を患者に取り付けて、自殺を幇助したと主張している。

 

この安楽死装置に付属しているボタンを患者自身が押すと、自身の人生を終わらせる薬や化学物質が放出され、安楽死するための薬が静脈内に投与された。ケボルキアンはこの装置を「タナトロン」(「死の機械」、ギリシャ語で「死」を意味するタナトスを由来)と呼んだ。最初は無害な生理食塩水、次に鎮痛剤(チオペンタール)、そして最後に致死量の塩化カリウムを連続して投与するという仕組みである。

 

末期患者で、自分の人生を終わらせたいと思っている人は、博士の助けを借りて、安楽死を迎えることができるように助けを求めた。博士が作ったものを使えば、患者はボタンを押して自分で致死量の塩化カリウムを投与することができた。

 

また、一酸化炭素の容器から供給されるガスマスクを使用した自殺装置も発明し、これを「メルシトロン」(「慈悲の機械」)と呼んだ。

ジャック・ケヴォーキアン博士の姪であるエヴァ・ヤヌスが「死の機械」と呼ばれる「タナトロン」と一緒に笑顔で写真を撮影している。
ジャック・ケヴォーキアン博士の姪であるエヴァ・ヤヌスが「死の機械」と呼ばれる「タナトロン」と一緒に笑顔で写真を撮影している。
バーバラ・ウォルターズとジャック・ケヴォーキアン博士が「慈悲の機械」と呼ばれる「メルシトロン」を持ってポーズ。
バーバラ・ウォルターズとジャック・ケヴォーキアン博士が「慈悲の機械」と呼ばれる「メルシトロン」を持ってポーズ。

批判とケヴォーキアンの対応


デトロイト・フリー・プレス紙の報告書によると、ケヴォーキアンの幇助で亡くなった患者の60%は末期患者ではなく、少なくとも13人は痛みを訴えていなかった。

 

報告書ではさらに、ケヴォーキアンのカウンセリングはあまりにも時間が短く(少なくとも19人の患者がケヴォーキアンに初めて会ってから24時間以内に死亡している)、少なくとも19件のケースでは精神医学的検査が行われておらず、そのうち5件はうつ病の病歴を持つ人々が対象だった。

 

 

報告書はまた、患者が慢性的な痛みを訴えた後、少なくとも17人の患者に対して痛みの専門家を紹介することを怠り、ときには患者の完全な医療記録を取得も怠ったと記載している。

 

また、少なくとも3件の自殺者の検視では、身体的な病気の兆候がなかった。ケヴォーキアンの患者のレベッカ・バジャーは、精神的に問題のある薬物乱用者であったが、多発性硬化症と誤って診断されていた。

 

ケヴォーキアンの最初の安楽死患者であるジャネット・アドキンスは、ケヴォーキアンとほとんど相談することなく、夫とだけ相談した上で実行されたこと、そして、ケヴォーキアンがアドキンスに初めて会ったのは自殺幇助の2日前だったこと、ミシガン州控訴裁判所が1995年にケヴォーキアンの活動に対する判決で述べたように、「アドキンスが自分の人生を終わらせることを望んでいるかどうかを見極めるための努力を全くしなかった」と報告書に記載されている。

 

これに対して、ケヴォーキアンの弁護士ジェフリー・フィーガーは、「私は、ケヴォーキアンほど厳格なガイドラインに従った医師に会ったことがありません...彼は1992年に法医学精神医学のアメリカジャーナルの記事でそれらを発表しました。昨年、ケヴォーキアンは「慈悲の医師団」と呼ばれる医師の委員会に新しいガイドラインを作成してもらい、それに細心の注意を払って従っていた」というエッセイを発表した。

 

しかし、フィーガー氏は、ケヴォーキアンが「迫害と告発」のために、彼の「厳格なガイドライン」に従うことが難しいことがわかったと述べた。

 

「彼はこれは何をすべきかというガイドラインを提案しています。これは戦争の時にはやってはいけないことであり、私たちは戦争中なのです」と付け加えた。

 

2010年のサンジェイ・グプタとのインタビューで、ケヴォーキアンは、オレゴン州、ワシントン州、モンタナ州での自殺幇助の状況に異議を唱えている。

 

当時、米国で自殺幇助が合法とされていたのは、この3州のみであり、それは末期患者のみであった。グプタに対して、ケヴォーキアンは、「末期であるかどうかの差異は何ですか?私たちは皆、末期なのです」と話している。

 

彼の見解では、患者の自殺を幇助するには末期患者である必要はなかったが、苦しんでいる必要があった。しかし、彼は同じインタビューの中で、患者がより多くの治療を必要としたり、医療記録を確認しなければならないという理由で、5回の自殺幇助依頼のうち4回断ったとも語っている。

 

2011年には、障害者の権利と自殺幇助と安楽死の合法化に反対する団体「Not Dead Yet」が、ケヴォーキアンが出版した文章の中で表現した潜在的に問題のある感情を引用して、ケヴォーキアンに反対の声を上げました。

 

『Medicide, the Goodness of Planned Death』の214ページで、ケヴォーキアンは「苦しんでいる人や運命にある人の自殺」を助けることは「最初の一歩に過ぎず、初期の嫌な職業上の義務に過ぎない」と書いている。

 

私が最も満足できると思うのは、この最初の不快な一歩が確立するのに役立つ条件の下で、貴重な実験や他の有益な医療行為の実行を可能にする見通しである。一言で言えば「死亡報告書」。

 

「最後の恐ろしいタブー:計画的死の医学的側面」と題された雑誌記事の中で、ケヴォーキアンンは、「伝統的ではあるが時代遅れで、絶望的に不十分で、本質的に無関係な倫理規定の制約を超えて」可能になるであろう「大胆で高度に想像力に富んだ研究」の証として、障害のある新生児の麻酔、実験、臓器の利用について詳述している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Kevorkian、2020年12月18日アクセス

https://euthanasian.weebly.com/suicide-machines.html、2020年12月18日アクセス