ジェーン・バーネル/ Jane Barnell
熊髭女
概要
生年月日 | 1873年4月8日 |
死没月日 | 1947年 |
国籍 | アメリカ |
職業 | エンターテイナー |
ジェーン・バーネル(1871年1月3日-没年不明)はアメリカの見世物芸人。"熊髭女"の売り文句で全米のダイム美術館やカーニバル、サーカスのサイドショーで活躍した。また、空中曲芸師でもあり、サーカス引退後は商業写真家としても活動をした。
彼女は「マダム・オルガ」「レディ・オルガ」「オルガ・ロデリック」などのさまざまな舞台名を使っている。彼女が出演した映画は、トッド・ブラウニングの『フリークス』のみで、このときはオルガ・ロデリックという舞台名で出演している。
略歴
ジェーン・バーネルはノースカロライナ州ウィルミントンで、ロシア系ユダヤ人で荷車行商人の父ジョージ・バーネルとアイルランド系でアメリカ先住民のカトーバ族をルーツに持つ女性の母のあいだに生まれた。
1939年5月に社会保証番号を申請した際、彼女は両親としてジョージ・バーネルとナンシー・ショウを指定しているが、彼女の実母の名前はインタビューなどでは話していない。彼女は2人の2番目の子どもで、ほかに3人の姉妹と2人の兄弟がいた。彼女の名前は母方の祖母にちなんで命名されたという。彼女の母はサウスカロライナ州ヨーク郡出身であるという。
2歳までに髭が生えはじめる。母親はジェーンを医者や民間治療者のところへ連れて行き、髭の病気を治そうとした。
1875年バーネルの母は、父親が仕事でボルチモアに出張しているあいだに4歳のジェーンをグレート・オリエント・ファミリー・サーカスへ売りつけた。このサーカスは経営をしているムスリムの女性と、踊り子として活動していた彼女の2人の踊の娘、ジャグリングやつな渡り芸を行う3人の息子で構成されていた。ジェーンは彼らとともにアメリカ南部を中心に数ヶ月の巡業に参加し、最終的にはヨーロッパ巡業にも参加することになった。
ヨーロッパではおもにドイツでこのサーカス団は巡業活動をしていた。ジェーンはベルリンで腸チフスの病気になり、サーカス団から外れて慈善病院に入院させられる。その後、ドイツの孤児院に入れられ、しばらく過ごすことになった。
5歳になって父親が孤児院にいる彼女を発見する。父親はカロライナからドイツまで彼女が関わったサーカスを1つ1つ調べあげてたどりついたか、もしくは、サーカスを運営していた女性がベルリンの警察官経由でウィルミントンの保安官へ連絡をいれもらったか、どちらかの方法で彼女の所在がわかったという。
この事件の後、バーネルはノースカロライナ州メクレンバーグ郡に住むスー族の祖母のもとで暮らすようになる。彼女は髭を隠すために髭をそりはじめた。
祖母はバーネルにナイチンゲールの物語の話をするが、その物語は彼女に多大な影響を与え、17歳のときにウィルミントンの旧市立病院で学生看護師として勤務するきっかけとなる。しかし、病院は彼女は決して普通の人生を送ることができないと確信させるにいたった嫌な出来事に出会い、約1年間後、看護師の職をやめた。
その後、彼女は祖母の農場へ戻る。1892年春に彼女はサーカスの興行師でプロフェッサー・ウィリアム・ヘックラーと出会う。彼は彼女に髭をそるのを止めさせ、ジョン・ロビンソン・サーカスへの入団をすすめた。
当時、彼女の髭は13インチの長さに達していた。1899年に祖母がなくなるまで毎年冬にはノースカロライナ州に帰っていた。彼女はロビンソン・サーカスで14年間仕事を続けた。
列車事故を起こしてサーカスを引退する前までバーネルは、おもに空中曲芸師として活躍していた。引退後、彼女は商業写真家になった。
バーネルはリングリング・ブラザーズ・サーカスをはじめ、さまざまなサーカス団の巡業に参加し、のちにはニューヨークのタイムスクエアにあるハーバート博物館にも参加している。1932年にはトッド・ブラウニングの映画『フリークス』に出演した。『フリークス』のドキュメンタリー映像『フリークス:サイドショーシネマ,2004年』によれば、映画の中のサイドショーのパフォーマーたちの全体的な描写に不満を残している。
1935年4月、彼女はマディソン・スクエア・ガーデンのリングリング・ブラザーズのサイドショーに参加する。
1940年、彼女は雑誌『ザ・ニューヨーカー』の記者ジョゼフ・ミッチェルのインタビューを受けている。彼のインタビューは彼女の人生に関する数少ない確かな情報源の1つである。
彼女がいつどこで亡くなったかは不明である。オンラインでは1951年10月26日亡くなったと記載されていることがあるが、これは間違いである。
バーネルは4回結婚している。初婚ジョン・ロビンソン・サーカスでバンドの演奏をしていたドイツのミュージシャンである。彼との間に2人の子どもをもうけている。彼女の夫と2人の子どもは数年後に亡くなった。
バーネルの二番目の夫は結婚後、数カ月後に殺された気球操縦者だった。三番目の夫はアルコール依存症だっため離婚した。最後の結婚は1931年で夫は彼女のマネージャーのトーマス・オーボイルである。彼はピエロでありハーバート・ダイム博物館のサイドショーの話し手でもあった。
彼女はエンターテイナーになったあと、家族とほとんど連絡をとらなくなった。家族たちはバーネルの仕事が不名誉なことだ思っていたと考えていたためだった。
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