クラウス・ノミ / Klaus Nomi
ニューヨーク・ニューウェーブの実験オペラ
概要
生年月日 | 1944年1月24日 |
死没月日 | 1983年8月6日 |
タグ | ニューウェーブ、シンスポップ、オペラ、実験、バロック、ディスコ |
公式サイト | http://thenomisong.com |
クラウス・ノミ(1944年1月24日- 1983年8月6日)は、ドイツ人カウンターテナー。ノミは一般的に、その奇怪な動きのビジュアルパフォーマンス、白塗り厚化粧、変な衣装、そして後退した頭の生え際を無理やり高角度に立たせた髪型でよく知られている。
彼の音楽は、クラシック、オペラをはじめ、Chubby Checkerの 『The Twist』や Lou Christieの『Lightnin' Strikes』のような60年代ポップ・ミュージックのカバーまで幅広い。またアメリカでは、1979年に『Saturday Night Live』で、デビッド・ボウイのバックシンガーの1人として知られている。アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」のメンバーたちともコラボレーション活動を積極的に展開。
エイズの合併症のため39歳で亡くなった。彼は芸術関係者の中でも最も早くエイズで亡くなった人物の一人である。
略歴
初期
クラウス・ノミは、1944年1月24日に、ドイツのバイエルン州インメンシュタットで生まれた。本名はクラウス・スパーバー。
1960年代に西ドイツのベルリン・ドイツ・オペラで案内係として働き、そこで彼は公演後にほかの同僚や会場の用務員を前にして歌を歌っていた。
またその頃、ノミはベルリンのゲイバーで有名な『Kleist Casino』でもオペラを歌っていた。
ノミは1972年にニューヨークに移り住む。イースト・ビレッジを中心としたアートシーンで徐々に人気が高まり始めた。ドキュメンタリー・フィルムによるとノミは歌手活動の傍らホテルのパティシエもしており、菓子作りの腕は職人並だったという。
クラウス・ノミとしての活動
1972年、チャールズ・ラドラムのリディキュラス劇団で行われたリヒャルト・ワーグナーの『Das Rheingold』の風刺的なキャンプ公演(大げさに誇張された振る舞いや、過度に装飾の多いけばけばしいファッショのライブ)に、ラインメイデンとウッドバード役で出演。
アーティストのデビッド・マクダーモットが司会を務めた4泊4日のイベント「ニューウェーブ・ヴォードヴィル」に出演し、ニューヨークのアートシーンで注目を浴びる。身体にぴったりフィットした透明なプラスチックの宇宙服の衣装で登場し、ノミはカミーユ・サン=サーンスのオペラ『1877年サムソンとデリラ』のアリア「Mon cœur s'ouvre à ta voix」(「私の心はあなたの声に開かれている」)を歌い上げた。
そのパフォーマンスは、最後にストロボとスモークと大音量電子音エフェクトが混沌とした状態で終わり、ノミはスモークの向こうへ消えていった。
ジョーイ・アリアスは"今でも考えると鳥肌が立つよ...。彼はまるで別の惑星から来たようで、両親が彼を家に呼んでいるようだった。煙が消えると、彼はいなくなっていたわ」と振り返った。
スモークは消えるとそこには彼の姿はなかった。その後、ニューヨーク中のクラブでひっぱりだこになるほど、当時のパフォーマンスの反応は圧倒的に肯定的だったという。
ニューウェーブ・ボードビルで、クラウス・ノミは作詞家のクリスチャン・ホフマンと出会う。ホフマンはニューウェイブ・ヴォードヴィルの第二期生のパフォーマーであり、ショーをプロデュースしたスーザン・ハナフォード、トム・スカリー、演出を担当したアン・マグヌソンとも親しい友人であった。
ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズのマネージャーのアーニャ・フィリップスは、ノミとホフマンにバンド活動の提案を行なう。そこで、ホフマンはノミの音楽ディレクターとなり、ほかのニューウェーブのメンバーを集めてクラウス・ノミバンドの編成を行った。
ホフマンはノミにヒップ・ホップ楽曲のカバーを提案。その際、ルー・クリスティーの「Lightnin' Strikes」を選曲するなどしてノミの活動をサポートした。また、ホフマンはいくつか歌詞を書いている。特に有名な曲は「ノミ・ソング」「トータル・エクリペス」「アフター・ザ・フォール」「シンプル・マン」である。クラウス・ノミ・バンドは、マンハッタンのクラブで演奏していたという。
しかし、その後、マネジメントに関する行き違いなどがありバンドは解散、その後、ノミは1人で活動を続けることになる。
1970年代後半は、「クラブ57」「マッドクラブ」「ピラミッドクラブ」などのクラブをはじめさまざまなストリートでノミはパフォーマンスを行っていた。
ノミは新進気鋭のモデル、歌手、芸術家たちとライブパフォーマンスを行なっている。当時ともに活動した人はたちは、ジョーイ・アイリス、ジャン=ミシェル・バスキア、キース・ヘリング、ジョン・セックス、ケニー・シャーフなど、アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」に出入りする人達が多かった。またマンハッタンのケーブルTV番組「TV Party」に出演もした。
デビッド・ボウイとの活動
デヴィッド・ボウイはニューヨークでノミのパフォーマンスを聞きつけ、すぐにマッドクラブでジョーイ・アイリスらとともに会合した。ボウイはノミとアイルスらを1979年12月15日に放送された「サタデー・ナイト・ライブ」での公演でバックアップ・シンガーとして起用した。
「TVC 15」の出演では、テレビ画面を口にくわえた大きなプロップピンクのプードルのぬいぐるみと一緒にパフォーマンスを行った。
また、ノミは、ボウイが「世界を売った男」出演時に着ていたプラスチック製の疑似タキシード・スーツに感銘を受け、自分用に1着注文したという。
その後、ノミ自身のタイトルを冠したアルバムの表紙や、いくつかのミュージックビデオでもこのスーツを着用している。ノミは人生の最後の数ヶ月まで、この白黒の単色のスーツを着て、スパンデックスとそれに合わせた化粧をしていた。後に彼はこのスーツで埋葬された。1982年11月にセカンドアルバム『Simple Man』をリリース。
また、ノミはプロデューサーのマン・パリッシュともコラボレーションし、パリッシュのアルバム『Hip Hop Bee Bop』の「Six Simple Synthesizers」にバックアップボーカルとして出演している。
1980年のアンダース・グラフストローム監督のアンダーグラウンド映画『ロング・アイランド・フォー』では、ナチスの役人として出演。また、1981年のロック・ドキュメンタリー映画『Urgh! A Music War』では、ノミが「トータル・エクリプス」をライブで演奏している。
1981年にリリースされたセルフタイトルのレコードのライナーノーツには、666 Fifth Avenueが連絡先として記載されていた。
晩年のノミは、オペラに専念するようになり、バロック時代のオペラの衣装で、首輪をつけてステージに立つことが多くなった。この首輪は、ノミが晩年に発症した数多くのエイズ関連の病気の一つである首のカポジ肉腫の発生を抑えるのに役立った。
1983年8月6日、ニューヨークのスローン・ケタリング病院センターで死去した。ノミはエイズの合併症で亡くなった最初の有名人の一人である。
ディスコグラフィ
●アルバム
・Klaus Nomi (1981)
・Simple Man (1982)
・Za Bakdaz (2007) – posthumous compilation of an "unfinished opera"
●コンピレーション
・Encore (Compilation – 1983)
・The collection (compilation – 1991)
●ライブ
・In Concert (Recorded 1979 – edited 1986)
●シングル
・"You Don't Own Me" / "Falling in Love Again (Can't Help It)" (1981)
・"Nomi Song" / "Cold Song" (1982)
・"Lightnin' Strikes" / "Falling in Love Again (Can't Help It)" (1982)
・"Simple Man" / "Death" (1982)
・"Ding-Dong! The Witch Is Dead" / "ICUROK" (1982)
・"ICUROK" / "Ding-Dong! The Witch Is Dead" (Canadian 12")
・"Za Bak Daz" / "Silent Night" (CD single, 1998)
・"After the Fall"
●ミュージックビデオ
・"Simple Man" (directed and edited by John Zieman)
・"Lightning Strikes"
・"Nomi Song"
・"After the Fall"
・"Falling in Love Again"
・"The Cold Song" (from Henry Purcell's 1691 opera King Arthur)
●映画出演
・Urgh! A Music War (1982)
・Long Island Four (1979)
・Mr. Mike's Mondo Video (1979)
・The Nomi Song (2004)