【宗教解説】李洪志「法輪功の創設者で精神的指導者」

李洪志 / Li Hongzhi

法輪功の創設者で精神的指導者


概要


生年月日 1951年5月13日生まれ
国籍

・中華人民共和国

・1998年からアメリカ永住権(グリーンカード)を取得

李洪志(1951年5月13日生まれ)は法輪功の創設者。伝統的な気功による「心身養成システム」の育成を指導している。1992年5月13日から中華人民共和国の長春市で法輪功の布教を始め、次いで中国全土で法輪功の講義を行ったり、教えを広めた。

 

1995年から李は海外でも布教を始め、1998年にアメリカ永住権を獲得。李の法輪功運動は、1990年代に政府や気功界を巻き込んで大きな支持を得るようになったが、1999年に中国政府から弾圧を受けた。李は現在ニューヨークに住んでいる。

 

中華人民共和国駐日本大使館の発表によれば、中国のオウム真理教とみなされている。一方、2020年アメリカ国会は5月13日に連邦議会で掲揚された国旗二枚を、フィラデルフィアの法輪大法学会に贈呈し、法輪功創始者・李洪志氏を褒賞するとともに、2020年5月13日の世界法輪大法デーを記念し、李洪志氏に敬意を表した。

李洪志インタビュー


中国共産党政権が、「中国のオウム真理教」として弾圧する宗教団体の創始者・李洪志とはどのような人物なのか。1999年に出版された角間隆の『信者一億人法輪功の正体』に掲載された李洪志インタビューを一部抜粋した。

 

李洪志インタビュー1「法輪功とほかの宗教との違いについて」

李洪志インタビュー2「中国共産党の弾圧について」

李洪志インタビュー3「法輪功は非暴力・自由と民主主義を愛する」


略歴

李の幼少期の生活は正直なところあまりよくわかっていない。彼の初期の略歴は曖昧であり、李の信者と批判者の間で話しが異なるという。以下は、あくまで一般的な李の略歴である。


若齢期


法輪功の創始者李洪志は、1951年5月13日、中国の吉林省公主嶺市の知識人の子として生まれた。

 

当時は、中国はマルクス・レーニン主義を高く掲げる共産党の一党独裁専制国家「中華人民共和国」が、1949年に発足した時期だった。中華人民共和国誕生から2年目に生まれた李洪志は、まさに毛沢東世代だった。

 

4歳のときから厳しい修練に励む。李洪志を最初に精神世界に誘った仏教の僧侶だった"全覚法師"自らの教えを受け、8歳で「真・善・忍」という宇宙で最高の修練を見事に成し遂げたという。

 

「真」とは、嘘をつかづ真実を語り、もし誤ったことをしても絶対に隠さないこと。「善」とは、すなわち慈悲心を持ち、弱者に同情し、貧乏な人を助け、善い行いことを多くすること。「忍」とは、困難なときや、屈辱を受けたときも気にせず、他人を咎めず、恨まず、仇を討たず、苦中の苦に耐えることである。

 

「法輪」という仏教のシンボルを表す言葉を高く掲げている事実からしても、やはり最も大切な基本部分は仏教の教えが根ざしているといわれる。

 

12歳のときに、李洪志の第一の師である「全覚法師」が忽然と去り、第二の師がやってきて、今度は、刀、槍、剣など中国古来の武術の極意を授かった。また、この頃から、伝統的な中国の「気」学に関心をもちはじめる

 

しかし、そのときこれまでの中国古来の伝統や文化を徹底的に破壊する「文化大革命」の波が押し寄せるようになる。そこで、苦肉の策として考え出したのが、当たり障りのない「気功」という言葉だった。

 

青年時代の李洪志は、周りの仲間の熱気に煽られたばかりではなく、自らも毛沢東と同じ農村出身であった共通点もあり、よく中身も分からぬまま、若気の至りで「文化大革命」を盲信し、無条件で「紅衛兵」の参加し、「造反有理」のもと、実権派の既成体制の破壊をしていたという。

 

しかし、次第に文化大革命が「古いものは何でも壊す」という恐るべき破壊と恐怖のエネルギーの思想であるとわかるようになると、幼い頃から仏教や道教など中国古来の深い精神文化に慣れ親しんできた李洪志にとっては、中国共産党の破壊行為は耐え難いものとなった。その後、李洪志は運動から遠ざかるようになった。

 

また、知識階級に属していた父親は紅衛兵から迫害を受け、重い病の床で、苦しみながらまもなくなくなった。

 

その後、李洪志は第三の師に出会い、四海を行脚することになる。この長い国内の旅は、彼の視野を広げるうえで、非常に大きな役割を果たしたという。

 

1972年、李洪志は、第三の師から「真道子」という道号を与えられる。これは「道教」も習得したという意味である。

 

そして、仏教と道教の教えを融合し、彼は独自に「気」学を開拓するようになり、自らの超能力と相まって、次第に近郷近在から注目を集めるようになり、人びとが訪れるようになった。これが現在の「法輪功」の原型らしきものだった。

改革開放政策と信者拡大期


1982年、李洪志は長春市(吉林省の省都)に移り、さらに修行を積みかねながら、社会主義政府公認の「気功師」の免許を取得。公然と組織活動ができるようになり、「ディサンプル」(弟子=信徒)の数が急増していった。

 

こうして信者を拡大できた背景には、当時の政治情勢も関係している。1978年にかつて「走資派」の代表として大弾圧されていた鄧小平が復権し、社会主義中国は「改革開放政策」を進めていた。そうした流れのなかで、かつて「宗教はアヘンなり」と言って抑圧を強めていた共産党も、スピリチュアル的なものに対して緩和しはじめていた。

 

このような状況のもと、ますます勢いづいた李洪志は、1990年7月のある日の夕方、数人の弟子を連れ北京の一角で天に祈った。すると、間もなく黒雲が空いっぱいにむくむくと広がり、稲妻が走り、雷鳴がとどろきわたった。しかし、李洪志は岩の上に足を組んでジッと座ったまま、微動だにしなかった。

 

これを見て、弟子だちは今さらながらのように「マスター・リー」の強い「気」を感じ、李洪志こそ、宇宙の真理を見、人類の起源、人類の発展、人類の未来をすべて見ている聖人だと確信したという。

 

この話はたちまちのうちに中国全土に広まり、「李洪志の法輪功」の名声は、ますます確固不動のものとなっていった。

 

1984年ころから、李洪志は国内のみならず、世界中にちらばる膨大な中国系の人びと、いわゆる「華僑」を中核として、「精神的な救済」のメッセージを送り続け、着々と海外の華僑にも影響を与え始める

 

李洪志のやり方は極めて巧妙だった。得体のしれない全く新しい教義を頭ごなしに押し付けるのではなく、それまでにもあった『法輪修仏大法』という教典を現代人に適合するようにわかりやすく解説した。そして、より普遍的な大法、すなわち『法輪大法』という形に編集しなおして、一般大衆に説いた。

 

1992年、「中国気功科学研究会」に集う気功諸派の指導者たちは、「李洪志の法輪功」を最も正統かつ正当なるものとして受け入れ、中国全土にその教えを広めることを公に認めたという。

 

李洪志も素早くこれに呼応して、中国各地で教えを説くようになった。各地の指導者たちは「法輪功は、無私無欲であり、謝礼が非常に少ないところにも喜んでいき、金儲けには一切関心を示さなかった。だから、人びとは、『法輪功は、与えであり、捧げであり、超自然の力である」と心から信じ、『李洪志師のためならいかなる艱難辛苦にも耐えよう」と、固く決意するようになった」という。

 

1992年12月、法輪功は、中国政府主催の「東宝健康博覧会」が北京で開催されたのを機に、いよいよ公然たる全国布教活動を展開する。

弾圧の始まりとニューヨーク亡命


1989年、江沢民が総書記の座についた頃から中国では宗教ブームがさらに広がっていた。天安門事件が起こり、全国の農村において共産党の権威が失墜して共産党加入者が減少し、その代わり宗教団体への加入者が急増していたのだ。

 

この事態に危機を感じはじめた共産党は、当然、李洪志と法輪功に対しても警戒、抑圧を始める。1993年には政府公認だった「気功師免許」が没収・取り消しにされた。

 

1998年4月、年々強くなる江沢民政権からの弾圧を逃れるため李洪志は弟子の進言を受け入れ、海外に脱出することを決める。事実上の「亡命」といってよい。

 

亡命する際の目標国は、自由と民主主義を求める人びとの政治亡命を寛容に受け入れてきたイギリスとアメリカに絞られた。さらに、海外における法輪功の浸透ぶりと組織化が最も顕著な場所、ロンドンとニューヨークに絞られた。論議のすえ

  • 活動資金を最も潤沢に提供してくれる国
  • 世界へ発展するための協力者(人材)が豊富な場所
  • サイバー・スペース時代の情報通信システム(インターネット)が最も完備している国
  • アジト(活動拠点)が容易に確保できる国
  • いざというときに、ただちに地下に逃れて発見される危険性が少ない国
  • 政府および公安当局が協力的な国

などの様々な条件が最も整ったニューヨークが亡命先に選ばれた。

 

アメリカには各地に巨大なチャイナ・タウンがあり、なかでもニューヨークには富裕な華僑もたくさん住んでおり、「中国の民主化のためなら、いくらでも金を出す」というシンパが多くいた。かつて、孫文が最も頼りにしていたのも、この「アメリカの華僑たち」だった。

 

また、アメリカには、中国の優秀な若者たちがたくさん留学しており、中には北京政府が厳選して送り込んだエリートたちが祖国の現状に不満を抱き、帰国を拒んでそのまま定着しているものも多く、つまり法輪功の頭脳部分として活発な協力活動を展開していた

 

また、アメリカ政府内には天安門事件に苛立ちを覚えている人権派がたくさんいるから、ことさら「亡命」の申請をするまでもなく、いとも簡単にグリーン・カード(永住権許可証)を発行してくれる。また、身辺保護についても、CIAやFBIなどの連邦政府関係機関をはじめとして、州や市などのローカル・レベルの警察・人権擁護機関までがじつに細かい配慮をしてくれる。

 

以上のような諸条件を勘案して、1998年4月、李洪志は妻と18歳の娘を連れてニューヨークに移住、マンハッタン郊外のクイーンズ区の閑静な住宅街で豊かなアメリカ生活を始めた。

 

そして、これを機に、アメリカ国内の「法輪功」の信徒や支持者も幾何級数的に急増した。


■参考文献

・『信者一億人法輪功の正体』角間隆