ルイス・ガラビート / Luis Garavito
被害者数300人以上 20世紀最悪の連続殺人鬼
ガラビトは、コロンビアで恐ろしい連続殺人犯として知られています。1980年から1999年の間、彼は未成年者を拷問、レイプ、切断、そして殺害し続けました。その被害者数は少なくとも200人と推定されていますが、実際のところは300人を超える可能性があります。20世紀において、これは最大の被害者数をもつ連続殺人事件となりました。本記事では、ルイス・ガラビトに関する詳細な解説を行います。犯行の背景や犯行現場、彼の事件について、また彼が刑務所で描いた地図に記載されている犠牲者の位置などを取り上げ、彼の告白からその影響までを詳しく解説します。
概要
生年月日 | 1957年1月25日生まれ |
国籍 | コロンビア |
愛称 | 野獣、トリビリン |
確定被害者数 | 193 |
推定被害者数 | 221-300以上 |
活動期間 | 1992-1999年 |
ルイス・アルフレド・ガラビト・クビヨス(1957年1月25日生まれ)は、「野獣」または「トリビリン(ディズニーキャラクター「グーフィー」にちなんで名付けられた)」の愛称で知られているコロンビア人の強姦魔、連続殺人犯、ペドフィリア、ネクロフィリア。
1999年10月、彼はコロンビア西部で147人の未成年者に対する一連の拷問レイプ殺害を告白した。
ガラビトは1980年秋から6歳から16歳までの未成年者を対象に虐待・殺害を始め、専門家は200人近くの命を奪ったと推定している。
その後、1992年から10月4日から1999年4月21日までコロンビアでさらに189人の未成年者のレイプ、拷問、切断、殺人をおかし、1998年の夏にエクアドルで4人の殺人を犯した。
ガラビトが刑務所の中で描いた地図に記載されている遺骨の位置をもとにすれば、彼の犠牲者は300人を超える可能性がある。これは20世紀における連続殺人事件による被害者数でトップである。
ガラビトは、1999年4月22日に12歳のジョン・イバン・サボガルをレイプしようとした容疑で逮捕され、1999年10月28日に147人の殺害を自白するまで、数カ月間容疑をかけられたままだった。
ガラビトはさらにこの数以上の殺人を告白している。地元メディアでは 「世界最悪の連続殺人鬼」と報じられている。
ギネス世界記録では、「アンデスの怪物」として知られるコロンビアの連続殺人鬼ペドロ・アロンソ・ロペスが掲載されているが、確認された被害者の数ではガラビトがトップでロペスを上回っている。
司法機関は、ガラビトに対して1853年と9日間の実刑判決を下した。コロンビアとエクアドルの犠牲者を合わせると、少なくとも193人の未成年者を殺害したことが確認されており、現代史における最も多量の連続殺人犯となった。
この驚異的な数字にさらに付け加えると、額面通りに受け取れば、ガラビト自身が2003年に23人の未成年者と5人の成人の殺害を認めていることから、犠牲者の数は全体で221人に上る。
背景
幼少期
ルイス・アルフレド・ガラビト・クビーリョスは、1957年1月25日にキンジオ州ジェノバで、父マヌエル・アントニオ・ガラビトと母ロサ・デリア・クビーリョスとの間に生まれた。7人兄弟の長男で第2子であり、3人の兄弟と3人の姉妹がいた。
ガラビトは、父親について、不倫、酒浸り、マッチョ、非常に厳格で、よく肉体的、精神的に虐待を受けたと主張している。
母親については、幼少期にほとんど愛情や育児をしなかった暴力的な女性であったと述べている。
子供たちの目の前で喧嘩をするのが日課で、子供たちはろくに世話もされなかった。喧々囂々(けんけんごうごう)の中にいるのは、本当につらい経験でした」と、ガラビトはその後を振り返る。
当時コロンビアでは武力紛争が続いていたため、一家はガラビトが小学校に入学する前に同県北部のバジェ・デル・コーカのセイランに移る。
6歳か7歳の頃、父親が妊娠中の母親を殴ろうとしたのでガラビトがかばおうとしたところ、父親に木に縛り付けられ、ナタで殴られたことがあるという。暴力による恐怖から、子どもたちは仕事から帰ってくる父親の姿を見ては、たびたび隠れていた。
ガラビトは父親と寝室を共有しており、肉体的な接触があったかもしれないという曖昧な記憶があるだけだった。
セイランのシモン・ボリバル校に通っていたガラビトは、当初は熱心で協調性があり、明るい性格だったと言われているが、次第に内気で無口になり、クラスメートからよくいじめられるようになった。
ガラビトは、メガネと臆病な性格から「ガラバト」(「くねくね」の意)と仲間からからかわれ、やがて休み時間に一人で遊ぶことを好むようになり、劣等感が生まれた。
頻繁に仲間はずれにされ、暴力的な衝突もあったが、教師はいじめをやめさせようとはしなかった。このことがガラビトを苦しめ、軽蔑的な父親への恨みと安定した家庭の仲間への嫉妬を蓄積させた。
1968年頃、自身の学力の低さと、一家の生計を支えるため小学5年生で学校を中退する。その後、父親から友人や恋人を持つことを禁じられた。
1969年、ガラビトは、近くのドラッグストアのオーナーと彼の父親の親しい人物から、肉体的、性的虐待を受けた。ベッドに縛り付けられ、ろうそくで火傷を負わせられ、剃刀で裂かれ、陰部や臀部を噛まれてたと言う。
この虐待の最初の事件の後、ガラビトは欲求不満で2羽の鳥を殺し、解剖したとされており、その後すぐに後悔と恥を感じた。
思春期
鳥に虐待を加えた後、ガラビトは弟妹に、服を着ずに同じベッドで寝るように命令し始めまた。彼らが裸でベッドに横たわると、何度も性的にもてあそんだ。
さらに、6歳の少年にも虐待を加えたとされている。 彼を知る人によると、ガラビトは非常に内向的で攻撃的になり、「世界に復讐する準備ができていた」と話していたという。
隣人による性的虐待は、ガラビトをインポテンツにさせ、永久に適切な射精ができない状態にした。虐待は1971年に家族がトルヒーリョに移ることで終わった。
父親や家族に話しても信じてもらえないと思ったガラビトは、虐待の事実を闇に葬ることを選択した。
トルヒーリョに着いて間もなく、ガラビトは近所の別の家族から異性愛のポルノを見せられた。ガラビトが嫌悪感をしめすと、隣人はガラビトは隣人に殴られて強姦された。
1972年、ガラビトは15歳の若者らしく積極的に女性との性的関係を何度も試みたが、女性からすべて拒否された。
ガラビトはアルコール依存症の親を通して、アルコールに手をだすようになり、自分もアルコール依存症になる。
反抗的な青年となりはじめ、1972年には5歳の少年をレイプしようとして母親に捕まり、一時的に家から追い出され、1973年にもボゴタの駅で6歳の少年に対する性的暴行未遂で、再び追い出された。
被害にあった少年は悲鳴を上げたため、警察に通報され、ガラビトは逮捕された。ガラビトは、レイプ未遂の容疑に対して「軽く」痴漢をしたかっただけだと供述している。
この事件後、ガラビトは父親のマヌエルから女性ではなく少年を強姦しようとしたことを叱責された。ガラビトが同性愛者であることから父マヌエルとの間で度々口論となり、「同性愛行為」を理由に最終的に家を追い出された。
ガラビトは若い頃、補償基金でアシスタントとして働き始め、その後チェーン店でも働きながら、マーケティングの勉強をしていた。しかし、同僚や顧客、上司と問題を起こしていた。
職を失ったガラビトは、宗教的なイコンを売る露天商や出稼ぎ労働者として働き、成人してからもさまざまな女性と主にプラトニックな関係を築いた。
1973年、トルヒーリョにいる頃にコーヒー農園で働き始め、後に毎週一緒にミサに参加するルース・メアリー・オカンポ・オロスコという学校の教師でシングルマザーの女性と初めて恋に落ちる。
ガラビトが親しくした女性には子持ちが多く、我が子のように可愛がられてたといい、また愛すべきボーイフレンドであった。
酔っぱらうと、ガラビトはますます嫉妬深くなり、人間関係を支配するようになったが、些細なことで、ガールフレンドに身体的虐待を加える傾向があった。その結果、後年、彼はしばしば町のゴシップの対象となり、女性パートナーから頻繁に立ち退きを迫られることになる。
成人期(1970年代)
ガラビトは、幼少期から思春期にかけてのさまざまな虐待が原因だとし、精神病、妄想症、うつ病の症状に悩まされるようになる。
男女の子供への痴漢行為を強迫的に行うようになり、思春期の男児ばかり好むようになった。また、達成感の欠如によるうつ病と自殺願望から、家庭を持つことを望むようになった。
酔った勢いで女性相手に性行為をすることにこだわりながらも、いつも勃起に失敗し、自分の家族への憎悪をむき出しにして暴言を吐くようになった。
次第にアルコール依存症に陥り、1978年からアルコール依存症のミーティングに参加するようになる。
ガラビトもペンテコステ派に改宗して店員として働いていたが、そこで偶然にも最初の恋人ルース・メアリーと短い間だが再会していた。
家族とは疎遠になり、姉のエスターとだけ親しくしていたが、エスターはアルコール依存症のガラビトを避けていた。
アルメニアという町に移り住み、地元のパン屋で新しい仕事を始める。地元の教会の礼拝に頻繁に出席し、祈りのときには、大げさに後悔を表していたが、アルコール依存症の会に出席し、時には精神科医を訪ね、バレンシア公園で子供の売春婦を調達して一日を終えるという毎日を送っていた。
1980年代
同僚と衝突し、パン屋での勤務を打ち切られたガラビトは、その後自殺未遂を起こす。自殺未遂後、サン・フアン・デ・ディオス病院の精神科へ通い、1980年の春まで繰り返し入院する。「自分の人生には何の価値もない」という気持ちにとらわれていたという。
精神科医に正直に「子どもが好きだ」という自分の小児性愛を暗喩して伝えたが、医者にこの発言は「家族を作りたい」という意味に誤解される。小児性愛であることを恐れたガラビトは、小児性愛や女性との性的不能を話さないようにした。
その後、ガラビトは1980年にアルメニアのスーパーマーケットに就職し、木曜日と日曜日の午後に2時間の昼休みを与えられるようになった。
シングルマザーで美容師のクラウディアと交際を始める。「初めて一緒にいて楽しいと思った女性だ」という。しかし、この関係は長くは続かなかった。ガラビトはクラウディアの浪費癖に付き合いきれなかった。
それよりも隣のキンバヤとカラルカで昼休みに子供を縛って強姦することで性欲を満たし、クラウディアとは性交はしなかった。
このころ、ガラビトは、職場で出会った子供たちに痴漢をしたいという衝動が常にあることを強調している。
年秋には、被害者を拷問しやすくするために、剃刀、ろうそく、ライターを持ち歩くようになった。また、子供たちをより効果的に噛むことができるように歯を抜いた。
犯行後、彼は青いノートに痴漢し子供の名前を書き、部屋を歩き回りながら祈り、儀式のように裸でおおげさに懺悔をした。また、毎晩、脅迫的に聖書を読むようになり、特に詩篇に自分の逸脱行為に対する意味を見出そうとした。
それにもかかわらず、ガラビトは密教的な研究、タロット占い、悪魔崇拝に興味を持つようになった。手相占い師や他のオカルト実践者を訪ねては、彼らも自分と同じようにオカルトについて無知であると判断していた。
ガラビトはうつ病と罪の意識に悩まされ、被害者の悪夢にうなされ、泣きながら目を覚ますと、被害者の痛みから受ける喜びを思い出してヒステリックな笑いに包まれていた。
ある日、アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』に出会い、幼少期や同性愛の経験、浮浪生活などの共通点を見出し、ヒトラーに関心を持つようになる。ヒトラーはガラビトにとってアイドルになり、ヒトラーやホロコーストの集団墓地に感嘆し、「強制収容所が好きだ」と言い始めた。
1984年1月25日、ガラビトは精神崩壊を起こし、33日間精神科に収容される。抗精神病薬を処方され、うつ病のために心理療法を受けた。
1984年2月28日に出国許可を得てペレイラに逃れたガラビトは、直ちにゲッセマニ地区で2人の子供に性的虐待を加えて焼き殺し、その写真を姉に預けた。子供たちがガラビトが犯人であることを公にしはじめると、ガラビトは町から逃走した。
次の犯行のために、メス、ろうそく、かみそりの刃をビニール袋に入れて持ち歩きはじめた。この時期までに100人以上の子供に性的虐待を加えていた。だが、ガラビトは友人から宝石を盗んだとして、一時的に拘留された。
ヒトラーへの憧れに加え、1986年12月に発生したコロンビアの連続殺人犯カンポ・エリアス・デルガドに取り憑かれ、ボゴタのレストランでの大量殺人とその注目度にすぐに感心し、バーでテレビに映る彼の姿を真似したくなる。
この頃から、ガラビトはマシンガンを手に入れ、父親を始めとする家族を全滅させてから自殺するという妄想を膨らませていた。デルガドのような大量殺人犯に憧れ、大量殺人後に自殺することが自分にとって理想の死に方であると感じていた。
この頃、ガラビトはグラシエラ・サバレタという別のガールフレンドができる。彼女は、彼が収容されている地元の精神科センターの近くに住むシングルマザーだった。
ガラビトは自己紹介をした後、「ずっと一緒にいてほしい」と気軽に声をかけた。ガラビトに惹かれたサバレタは、生活費を払う代わりに、ガラビトを自宅で同居させることにした。
週に3、4日滞在するガラビトだったが基本的に不在だった。サバレタの10代の息子には「道に出るな」「気をつけろ」と注意し、幼少期には感じられなかった家族への愛情を示していた。
しかし、ガラビトのアルコール依存症は、しばしばスキャンダラスで反社会的な行動に走らせるので、サバレタは警戒していた。ガラビトもまた、ルス・メアリーと同様、後にサバレタを愛していたという。
ガラビトの知人たちは、ガラビトが思春期の若者とたわむれているのをみて小児性愛を疑っていたが、深く追求されることはなかった。また、交際相手もガラビトの小児性愛に気づいていなかった。
1988年から、ガラビトは自分の犯罪を記録し始め、被害者からの戦利品を黒い布製のスーツケースに入れ、複数の女性の家に保管していた。
1990年代
1980年から1992年の間に、ガラビトは少なくとも200人の青少年を強姦し拷問したと推定される。この間、積極的に5年間精神科でに通い、何度も自殺未遂を起こしている。また、ガラビトが住んでいた地域では、児童虐待の報告が劇的に増加した。
ガラビトは、占い盤を操作しているうちに、悪魔が「自分に仕えるか」と聞いてくるという精神病の状態になったと主張した。悪魔は「殺せ、殺せばいろいろなことが起こるだろう」と言った。
1992年10月1日に最初の殺人を犯そうとしたガラビトは、菓子や葉巻を売っているストリート・チルドレンを探した。
泥酔状態で、コロンビア・ボリバルにあるメリア・ホテルに若者を誘い込み、森に連れ込もうとしたが、地元の警察に邪魔されて殴られ、そのうちの1人がガラビトの頭をリボルバーで殴った。
ガラビトは血を流しながら、10万ペソ、時計、指輪を盗み、警察から逃れた。そして、ガラビトは3日後に殺人を決意した。
1992年10月4日にフアン・カルロスという名の少年を初めて殺害したガラビトは、身元確認と逮捕を逃れるために様々な変装をするようになった。
一方、地元では「グーフィー」と呼ばれ、トルヒーヨの子供たちに寄付をする慈善家として知られ、地元の人々はガラビトのためにわざわざ履歴書などを保管していた。
また、切断した足の指を集め、コロンビア国家警察の探知犬チームに追跡されるのを恐れて処分した。
1996年6月、ガラビトは、芳香剤のセールスマンとしての一時的な仕事を失ったことをルス・マリーに不満をぶつけながら、食料と経済的救済と引き換えに滞在先を求めた。
ガラビトはアルコール依存症で短気なため、彼女は躊躇しながらも彼を一時的に受け入れた。
その後、1996年8月にボゴタのグアカマヤス地区で激しく転倒し、脚を骨折した。痛みに耐えられず、一時は男の家に身を寄せたが、再びルス・メアリーの家に住むようになった。
松葉杖、首の固定具、ギブスをつけての生活で、ガラビトは2ヵ月間、路上で物乞いをするようになった。
ガラビトは食事代を出したり、テレビを持参するなどして家計を支えた。しかし、彼は敵対心を持ち続け、ガールフレンドの15歳の息子がローカルニュースを見たいと言ったことから仲が悪くなりはじめる
ルス・マリーは自分の息子を無礼で無作法だとあざ笑うガラビトを立ち退かせ、ガラビトに贈った金の鎖を破損させた。
その後、クリスマスの日にルツ・メアリーは訪ねてきた友人からプレゼントを受け取ったが、それを知ったガラビトは怒って酔った勢いで電話をかけ、彼女の関心を失うのを恐れて「あのホモどもは嫌だ」と述べたという。
ガラビトがメアリーから嫌われると、翌朝、ルツ・メアリーの喉をつかみながら卑猥な言葉を叫んで脅し、彼女と子どもは隣家に身を隠した。
地元では「紛争」とあだ名が付いていたガラビトは、酔って町から町へと漂流し、嫌がられているのが目撃された。それは、同僚との衝突、ガールフレンドへの虐待、一般的な常識がないことが原因であった。
逮捕当時、ペレイラで2人の女性と暮らしていたにもかかわらず、彼の常軌を逸した行動は、有意義な人間関係を築くことができなくなった。
ガラビトの犯罪が終わる頃、彼はホームレスとしてコロンビア西部をさまよっていた。ガラビトは、あまりにも簡単に誘い出せる未成年者の殺害に飽き飽きし、最終的には、ジャーナリストたちの注目を集めるために、数人の成人を誘拐して殺害し、その熱狂の中で死ぬかもしれないという大量殺人を行う計画を立てた。
しかし、1999年4月22日、この大量殺人を実行する前に、12歳のジョン・イバン・サボガルに対する性的暴行未遂で拘禁された。
被害者の種類と殺害パターン
ガラビトの被害者は、年齢、性別、社会的地位によって明確に識別されていた。
ガラビトは6歳から16歳までのホームレス、農民、孤児の少年をターゲットにしていた。ガラビートは、混雑した通りでも、田舎でも、少年たちに近づき、お金や飴、仕事などのささやかな贈り物でおびき寄せていた。
ガラビトは金のために簡単な仕事を少年たちに提供し、神父、農民、ホームレス、露天商、麻薬の売人、老人、ギャンブラーなど、少年に合法的に仕事を与えてると信用性の高そうな人物に変装することがあった。疑惑が広がらないように頻繁に変装を変えていた。
いったん子どもの信頼を得たあとにガラビトは、子どもたちが疲れ果てるまで一緒に歩くことで抵抗しづらい状態にさせた。まず、彼らの手を拘束し、その後、彼らの服をすべて脱ぎ捨て、拷問、レイプ、そして時には首を切ることもあった。
通常、少年は臀部を刺されたり、尖った物を肛門に挿入されたりして 長時間の強姦や拷問に耐えている形跡があった。
睾丸はしばしば切断され、口の中に入れられていた。子供たちの遺体はすべて全裸で発見され、すべて噛まれた跡や肛門を貫かれた形跡があった。ほとんどの遺体には、長期にわたる拷問の痕跡が見られた。
調査
1992年から、6歳から16歳までの少年たちが、コロンビアの路上から急速に姿を消し始めた。数十年にわたる内戦のため、コロンビアの多くの子供たちは、貧しく、ホームレス、または孤児となっていた。
被害者の多くが失踪に関する警察の報告書を提出していなかったため、何年もの間、これらの殺人事件は見過ごされていた。
被害者の遺体はコロンビア全土に現れ始めていたが、1997年に大量の墓が発見されるまで当局はあまり注目していなかった。
このような大量の行方不明の子どもたちの殺害は、特定の地域に限定されたものではなかったため、広範囲の調査が求められた。1998年2月、コロンビアのジェノバの町の外で、2人の裸の子供の遺体が丘の上で隣り合って横たわっているのが発見された。
翌日、わずか数メートル離れた場所で、別の子供の裸体が発見された。三人の遺体はいずれも両手を縛られており、性的虐待の痕跡があった。被害者の首はひどく切られ、背中、性器、足、臀部にアザがあった。
凶器は遺体と同じ場所で発見された。犯行現場で発見されたメモには住所が書かれており、その情報からガラビトのガールフレンドが判明した。
彼女は連絡を受けたが、数ヶ月間ガラビートに会っていないと警察に話した。しかし、彼女はガラビトが持っていたバッグを警察にわたした。その中には ガラビートの持ち物がたくさん入っていた。その中には、少年の写真、彼の殺人事件の詳細な日記、被害者の集計マーク、紙幣などが含まれていた。
この新しい情報をもとにガラビトの家にたどり着いたがガラビトはいなかった。刑事はガラビトが仕事で移動しているか次の被害者を探していると推測した。
彼は数日後、思春期の少年に対する強姦未遂の容疑で地元警察に逮捕された。ホームレスの男性が、ガラビトと少年が争っているのを近くで見ていたため、少年を救出する必要があると感じたという。
ガラビトは逮捕されたが、当初、警察はコロンビアで最も指名手配されている殺人犯の男を拘束していたことを知らなかったという。
逮捕・自白・判決
ガラビトは1999年4月22日に強姦未遂の容疑で逮捕された。地元で起きた殺人事件と強姦未遂の罪状について尋問を受けた。警察は、もし傍観者が介入しなければ、ガラビトは少年を殺す計画を立てていたのではないかと推測した。
短い尋問の後、刑事はガラビートが大量殺人の「野獣」でないかと疑ったが、ガラビトは無実を主張していた。
ガラビトが留守の間に刑事が彼の枕と生活圏から彼のDNAサンプルを採取した。犠牲者に付着していたDNAは、ガラビートの独房から見つかったDNAと一致した。ガラビトは140人の子供を殺害したことを自供し、コロンビア全土で172人を殺害した罪で起訴された。
172件のうち138件について有罪判決が下され、他の件については現在進行中である。ガラビートは1853年と9日の懲役を言い渡されたが、これはコロンビア史上最長の刑期だった。
しかし、コロンビアの法律では禁固40年とされており、被害者の遺体発見に協力したため、刑期はさらに短縮されて22年となっている。
ガラビトは現在、コロンビアのエル・セザール県のバレドゥパルにある最高警備刑務所に週間されている。 即刻殺されることが恐れられているため、他のすべての囚人とは別個に拘束されている。
彼は2021年に釈放される予定となっている。しかし、コロンビアの法律では、子供に対する犯罪を犯した者は「正義の恩恵」を受ける資格がなく、少なくとも60年の刑期を刑務所で過ごす必要があるとされている。
ガラビトの場合は、国の最高刑期である40年の禁固刑の制限、また「正義の恩恵」とされる被害者の遺体発見のための警察の支援のための22年への短縮が適用されないと考えられている。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Luis_Garavito、2020年6月12日アクセス
・https://historycollection.co/luis-beast-garavito-worst-serial-killer-history/、2020年6月12アクセス