日本の見世物小屋
非日常的な曲芸、天然奇物、細工を展示する仮設小屋
概要
「見世物小屋」は、都市の盛り場や寺社の境内において、日常では見られない曲芸や天然奇物、細工などの「見世物」を期間限定で展示する小屋である。海外では曲芸・軽業は「サーカス」、天然奇物や奇異細工の展示は「フリークショー」「サイドショー」に相当する。
日本において見世物小屋は、江戸時代から明治時代にかけて特に流行し、その後、大正、昭和を経て平成の現代まで、さまざまなかたちを変えて現在も行われている。
江戸では浅草、両国、大阪では道頓堀、京都では四条河原が見世物小屋のメッカで、基本的には神仏開帳の時期と相前後して仮設される。
見世物小屋で展示された見世物はおおよそ3つにわけることができる。
- 手品、軽業、曲独楽など曲芸
- 畸形、珍獣珍禽、異虫魚、奇想木石などの天然奇物
- 煉物や張抜きの人形や籠貝紙などの細工・工芸類
図表は、見世物絵の出版量から見た場合の近世後期の見世物興行のあらましだが、見世物の中心は細工と曲芸であり、次いでラクダやインドゾウの珍獣である。
「見世物」といえば、こびとや蛇女、熊女といった身体障害者のイメージが強いが、それらの見世物芸人は全体のわずか5%に過ぎない点に注意したい。subculturepediaでは、そのわずか5%に過ぎない畸形的な見世物に焦点を当て、見世物小屋を解説する。
江戸時代以前は、以上のような見世物はなく、奈良時代の聖武天皇の御大天平年代(729〜749年)に中国から伝わってきたこっけいな動作や曲芸などの「散楽」の流れを組んで発展した幻術や奇術などの演芸だけだった。
しかし、江戸時代になると、演芸だけでなく畸形の人々をはじめ、珍獣珍禽や異虫魚、奇想木石などの天然奇物類の展示が追加されるようになる。見世物小屋に相当する展示が生じたのは、1600年以後とされている。
明治以前から日本の見世物は海外との交流とも無縁ではなかった。江戸時代には、海外からの渡来が強調されたラクダやゾウなどの動物見世物、異国由来をうたった軽業や曲芸、異国の人物や故事を題材にした細工見世物や生人形が多数ある。また、日本からは多数の人魚のミイラが江戸時代に海外に輸出されている。
明治時代になると欧米のサーカスや科学技術から影響を受け、欧米伝統の新しい科学技術や機器が見世物の一部として取り入れられた。電気や熱気球等のテクノロジーも、科学見世物として大いに人気を博した。
その一方で、明治時代になると見世物小屋に出演していた障害者への差別の問題を含めて、ネガティブなイメージが抱かれるようになった。江戸川乱歩の小説や寺山修司、唐十郎の映像作品、丸尾末広のマンガには、そのような見世物のイメージが色濃く投影されている。
見世物小屋にはどんな内容が演じられるか知るための絵看板が掲げられ、タンカと呼ばれる呼び込み口上があり、外部から楽屋が見えるようにしたグラシやノセなど、客を内部に誘い込むための独特の仕掛けがあった。
重要ポイント
- 仮設的な小屋で期間限定で展示する
- 見世物の中心はあくまで曲芸と細工
- 畸形見世物は芸術家たちの影響元になっている
重要な先行資料・研究者
見世物研究において最も重要な先行資料は、昭和3年に春陽堂から刊行された朝倉無声による『見世物研究』である。朝倉は在野の研究者で江戸時代から近代にかけての文芸・風俗の著述を残している。
『見世物研究』は朝倉が集めた江戸時代の随筆、雑書、刷り物などの膨大な資料を元に、これまで誰も研究対象としなかった見世物というジャンルを独自に体系化したものである。見世物を「曲芸」「天然奇物」「細工」の3種類に分類して論じ、現在にいたる見世物研究の基礎を造った。本サイトの情報の大半は朝倉の本を現代語に訳しているだけである。
朝倉に続いて重要となる見世物研究者は川添裕である。川添裕(1956年1月14日生まれ)は、文化史家・日本文化史家。現在、横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院教授、見世物文化研究所代表。
川添は現役の見世物研究者であるが、朝倉の研究・体系化に敬意を払いつつ、近世後期の一次資料を中心に江戸時代の見世物を新たな視点や事実を数多く提示した。特に、かに男、蜘蛛男、蛸娘など、江戸川乱歩や丸尾末広の作品から「見世物といえば畸形」と想像しがちな近代の印象を払拭し、細工や曲芸を中心に見世物の世界を再提示した点は大きい。
さらに、川添はテレビ番組やショー、コンサートの演出、テーマパーク、フェイクアートなど現代の娯楽コンテンツと江戸時代の見世物の繋がりも論じている。
ウェブサイトでは「見世物興行年表」が重要である。江戸初期から明治までの見世物小屋に関する史料を年代別に分類・整理している。特に図版が豊富で本サイトでも図版を多数引用させていただいている。
どこで見世物を鑑賞できる?
●靖国神社「みたままつり」:7月13日〜16日
正確な情報はわからないが、ごく最近まで毎年7月13日〜16日かけて開催される東京・靖国神社で開催される「みたままつり」に露天として見世物小屋が設置されていたが、2016年から露店禁止になっている。しかし、昨年から露店再開しているため見世物小屋も復活する可能性はある。
●花園神社「酉の市」:11月
2019年まで確実に見世物小屋が鑑賞できたのは、毎年11月に東京・新宿の花園神社で開催されている「酉の市」の露天である。2019年の酉の市でも見世物小屋は設置される。ゴキブリコンビナート、デリシャスウィートスが中心の見世物になる予定となっている。
おもな見世物芸人解説
・可坊(馬鹿)
・缶児(四股欠損)
・ダルマ男(四股欠損)
・熊女(多毛症)
・花咲男(屁芸)
・逆さ首(脳性麻痺)
・鬼娘(口裂け)
・目出小僧(目出男)
・眼力太郎(目出男)
・猩猩兄弟(アルビノ)
・岩本梅吉(足芸)
・蛇小僧(魚鱗癬)
・熊童子(多毛症)
・有光伸男(人間ポンプ)
・小雪太夫(蛇食い)
おもな興行主
●大寅興行社
現在も見世物興行を続けている興行社。早稲田大学を中退して見世物の世界に飛び込んだ大野寅次郎が創設。「魔宮殿」と称するおおがかりな小屋をつくり、奇術や大蛇、犬と猿の芸などを見せた。小沢昭一の『ドキュメント又日本の放浪芸』に、福島県郡山市で興行中の一座を訪問した一部始終が収録されている。
●藤平興行社
小松家一家の興行師として、明治の終わりごろに見世物をはじめ、平成元年・1989年ころまで続けた。狼に育てられた「狼少女」が鶏を食いちぎる「パサツキ」と呼ばれる芸を演じた。この狼少女は寺山修司原作、天井桟敷第六回公演『怪談青ひげ』にも出演している。
●多田興行社
タンカの名人といわれた多田保夫(1929〜1998)が昭和30年代なかばに旗揚げし、平成10・1998年の多田の死去によって廃業した。多田はマキツギのアラタンカを得意とした。
畸形見世物の歴史
江戸時代初期の畸形見世物
畸形、すなわち障害者を見世物にしたのは、かなり古くからとされている。小屋を設営などして入場料をとらなくても、たとえば、たまたま生まれた奇形児を仏教の布教者が因果応報の説明のため見世物扱いにして連れて歩いていたという。
日本において、畸形をはじめて見世物小屋で見世物としたのは、寛永(1624−44年)年代を描いた『洛陽小芝居屏風』で描かれている、小屋の中で両足のない男と、両手のない女が足で弓を射る様子である。
●とくりご
当時、手のない男女を缶児(とくりご)と呼んでおり、それは身体の形状がとっくりに似ていたことから由来していると。缶児のそばに太鼓や糸車が置かれ、弓がおわると足で太鼓を叩いたり、糸をつむぐ芸を披露していたという。
●べらぼう
続いて、寛文12年(1672年)から江戸・大阪・京都の三都の見世物小屋で可坊(べらぼう)という名前の畸形が見世物とされていた。可坊は身体が真っ黒なうえ、頭は鋭くとがっていて、目は真円の形をして赤く、猿のような表情をしており、「馬鹿の象徴」というキャッチがうたれていた。
ほかの人よりもも色が黒くて醜いことから「べらぼう」と言葉が流行語になり、現代における、あまりにもひどいさまや、はなはだしいさま、馬鹿を罵ることをあらわす「べらぼう」のルーツとなった。
延宝時代(1673−1681年)には、三都の見世物では、大女房(巨女)、一寸法師(こびと)、缶児の万太郎、三面六手足の赤子(ただし屍体)、手足が寄り合わさり縄のようになった少女などがいたという。
●大女房・一寸法師
なかでも大女房と一寸法師と缶児は、当時評判が高く、毎日多くの人が鑑賞に訪れたという。大女房はおよめという名前で身長は七尺二寸(2m16cm)あったという。一寸法師は頭大甫春という名前で大阪生まれで身長は一尺二寸(37cm)、読み書きができたという。この二人はコンビで登場し、身長の落差で人気を博した。
元禄時代(1688−1704年)の見世物業界のスターは頭坊雲楽である。彼は頭大甫春と同じく、頭が大きく背は小さいこびとだったらしい。正徳6年(1716年)に見世物小屋で活躍した長西官もまたこびとで、彼は軽業も演じた。
●醜男・馬鹿
このころの少し変わった畸形としては、元禄時代に頭坊雲楽と並び人気を博した醜男の磯良がいる。彼は全身が鱗のようになっていて、ところどころに貝殻などが取り付けられ、目鼻は形を消失したような異形の身体をだった。
口上が編木で身体をなでると、カラカラと音がしたという。あまりにも醜い男だったので、当時の子どもの間では「たとえ磯良になっても約束は破らない」という宣誓文ができたほどだった。磯良は当初、大阪の見世物小屋で活躍してたが、その後、江戸へ移ったという。
ほかに話題を集めた醜男は、元禄15年(1702年)に大阪の天満に滞在していた大尽である。彼は生まれつき馬鹿なうえ、顔は梅毒が原因で崩れており、二度は見慣れぬ醜悪な男だった。
江戸時代中期の畸形見世物
●三本足
宝永時代(1704−1711)に人気があった見世物芸人は、三ツ足のお光だった。お光は大阪生まれで当年16歳の美女だったが、残念にも三本足で生まれたのが因果で、見世物芸人となった。当時のお光の評判は街中でうわさになり、見世物小屋は連日満員となった。
あまりに人気だっため彼女の偽物も出現した。お光とよく似た女性と別のものが舞台の下から足を出して演技をしていたという。
●ふたなり
元文三年(1738年)には江戸堺町の小芝居で、ニ形(ふたなり)の畸形が現れ話題になった。二形の畸形は南品川に住む安左衛門の娘で、男女両性の生殖器を持っていた。
彼女の噂を聞きつけた南八丁堀一丁目に住んでいた加兵衛という男が、金儲けの機会を得たとばかりに彼女を引き取り、町奉行所に見世物の許可を申請したが、町奉行はこのような道理のない見世物の出願を認めることなく却下する。
それにもかかわらず、加兵衛は彼女を見世物として出演させたため、聞きつけた奉行所から停止を命じられたという。畸形の見世物が停止されたのは、これ以前はなく、唯一、ふたなりのみだった。
なお、当時は見世物興行に特に法律がなかったので、無断で見世物としていれば停止命令がされずにすんだが、大事をとって余計な出願許可をして不許可されたため停止が命じられたという。
宝暦(1751−1764年)、明和(1764−1772年)の時期は、江戸時代における畸形見世物の全盛期となった。鍋食い男をはじめ、ダルマ男、クマ女、碁盤娘、馬男、蘇鉄男、三本足の女、カニ娘、猫娘などが大阪、京都、江戸の三都の見世物小屋で活躍した。
●鍋食い男
鍋食い男は大阪の道頓堀でおもに活躍していた見世物芸人で、砂をはじめ茶碗や鍋釜などをガリガリ噛み砕いては食い、そのあとで茶を飲むというあらゆるものを飲み込む胃袋を持っていた。鍋食い男は、その後江戸へ移り1758年の冬から両国で「火喰い坊主」という芸名で興行をしていたが、どこでも好評だった。
これと同じ類のもので1765年から大阪の道頓堀で馬男という見世物芸人がいたが、杉の葉や竹の葉を食べるだけだったので、たいして人気はなかった。
●ダルマ男
宝暦9年(1759年)4月から大阪の坐摩社内で興行していたダルマ男は、四国生まれで生まれたときから両足がとも膝から下がなかったにもかかわらず、さまざまな曲芸を演じたので、街中で人気を集めた。大阪で売れっ子になったあと江戸へ移り、明和6年(1769年)から両国で興行をおこなったが、非常に人気があったという。
●熊女
熊女は、宝暦9年(1759年)8月から江戸堺町ではじめて見世物として現れた。越後の山奥に住む猟師の娘として生まれたが、身体は熊のようにけむくじゃらだったという。その後、父親の提案で見世物として江戸へ送られる。
●碁盤娘
熊女と同時期に活躍した碁盤娘は、いわゆるこびとの女で、身長は一尺二寸(37cm)だった。彼女は両手に花笠をもち、碁盤の上に乗って踊っていたから碁盤娘と呼ばれるようになったという。熊女が不気味だったのに対して彼女はきわめてかわいいという点で人気で、連日満員だった。
●蘇鉄男
ほかに、蘇鉄男は明和2年(1765年)に大阪の道頓堀で活躍した見世物芸人で、身体に三寸釘や五寸釘を打ち込んで不死身の身体を見世物にしていた。
●カニ娘・猫娘
カニ娘は明和6年(1769年)に二本指の少女で、同じころに活躍した猫娘は顔面が猫に似た女で大阪、京都、江戸で興行していたが、ふたりともたいして人気はなかった。
江戸時代畸形見世物黄金期
安永天明(1772−1789年)は、畸形見世物の隆盛期である。花咲男、鳥娘、犬男、狐娘、鬼娘、初音耳作、大人国、小人島、豆娘、はせを女、戎娘、二面相、布袋男などが、三都の観場で客入りを競っていた。
はせお女の詳細は不明だが、鳥娘、犬男、狐娘などは見た目が対象の動物と似ていた畸形で、戎娘と布袋男は恵比寿や布袋に似ていたから名前を付けられたと思われる。大人国とは大男のことで、小人島や豆娘はこびとのことである。特に人気を集めたのは、花咲男、初音耳作、鬼娘、二面相だった。
●花咲男
花咲男は安栄3年の4月から、江戸の両国で演芸をはじめた見世物芸人で、さまざまな曲屁(おなら芸)で人気を集めた。花咲男のおなら芸は、見世物はじまって以来の珍興行で評判が高く、毎日見物人が殺到して現場は足の踏み場もないほど混雑していたという。
舞台の中央に座り、自ら口上を述べたあと、下座の囃子のあわせて「トツピョロ〜ピッ〜」と屁をかます。ついでニワトリの朝の鳴き声を「ブ・ブゥ~ブゥ」という屁の音で真似し、その後、長唄や浄瑠璃に合わせて、リズムよく音色を変えながら屁をかましたという。
あまりにも花咲男の人気が高かったため、江戸中の人気を一身に集めて、付近の見世物が崩壊したといわれている。江戸で成功後、関西へ移り、京都の四条河原や大阪の道頓堀で興行し、おおいに人気を集めたが、安永6年(1777年)には再び江戸に戻り、花を咲かせ、三国福平と改名して興行を続けた。
●初音耳作
初音耳作は豊後生まれで大阪で活躍した見世物芸人である。耳から声を出すという珍芸をしていた。耳作は安永7年(1778年)から、大阪道頓堀の観場に出演する。
最初は小手調べに、耳から小さい声を出し、次に当時流行していた大文字屋のかぼちゃ節を上手にうたった。それが終わると大声を出すのだが、その声はちょうど独楽の唸りに似た感じだったという。最後にさまざまな小唄を下座の三味線にあわせて歌い終わった。
口の中に笛のしかけがあるかという客の疑いを晴らすために、タバコを吸いながら声を出したという。
●鬼娘
鬼娘は安栄7年(1778年)から両国で活躍した見世物芸人である。産まれたときから頭に角袋が生えており、口は耳の根まで裂け、二本の牙を持っていたが、産婆に噛み付いたため牙を抜いて口を縫い縮めたという。
●二面相
天明6年(1786年)から大阪難波新地で活躍した二面相は、顔の右側が女、左側が男といういわゆる半陰陽者だった。左が鼻下と顎にはひげが生えていた。頭髪は右が島田まげ、左がちょんまげに結ばれてた。着物は右は桜模様の小袖、左は黒紋付の上下姿だった。身長は二尺五寸(75cm)でこびとだった。この一寸法師がたくみに男女の音色を使い分け、芝居狂言の身振りをするのが珍しく、街中の人気を集め、日々満員だった。
寛政の改革による一時的な衰退
ここまで盛んだった畸形の見世物も、寛政(1789−1801年)から享和(1801−1804年)へかけて不振をきわめ、わずか2種類の見世物しか開場されなかった。しかも、それは大阪のみで江戸では全く興行されることがなかった。
寛政改革の際に奉行所から、障害者だとても同じ人間である以上、彼らを商売のためにさまざまな名前を付けて、一般庶民に見世物にするのは問題があるとのことで、見世物興行を禁止する令が発せられたためだ。
1つは、大阪の缶児の吾妻吉五郎の足芸で、寛政8年から興行をしている。詳細は記録は残ってないがかなり珍しい曲芸を行い連日満員だったという。
もう1つは「いかもの喰」と名付けられた見世物芸人で、享和3年から名古屋小路で興行をしている。24〜25の女性で、信州木曽の山家に生まれたが、幼少から虫類のみ食べ、飯を食べるとすぐ吐き出すという変わりものだった。両親の死後、彼女は興行師が預かることになり、名古屋で興行したときには、芋虫やミミズをはじめとして、カエルから蛇まで、食べて見せたという。
江戸時代後期の畸形見世物
化政(1804−1830年)になると畸形の見世物が復活して、福助、金玉娘、徳利子、ニ形娘、矮人の足芸、四足の赤児、鳥羽絵娘、猩々、蛇娘、竜娘、大出額の娘、山男、生布袋、目出小僧などが三都で活躍した。
蛇娘や竜娘は詳細はわからないが、以前に書いた磯良と同じで全身に鱗のようなものが生じていた畸形だあろう。徳利子と二形娘も以前に書いたものと同じ種類である。鳥羽絵娘と生布袋は、鳥羽絵と布袋絵戸によく似た人であり、山男は「いかもの喰い」と同じで蛇を食べる人だった。
これらは事前からあるから、あまり人気はなかったが、一方で人気を呼んだのが福助、金玉娘、矮人の足芸、四足の赤児、猩々、大出額の娘、目出小僧だった。
●叶福助
文化元年(1804年)から、江戸で叶福助という名前の頭の大きな人形が流行した。それは当時、この人形を小さい座布団に重ねた上にのせて祈ると、裕福があるという迷信が流行ったためである。
この流行がもとになり、同年の秋から上野山下の観場で、12〜13歳の頭の大きな畸形児に柿色の上下を着せて「これぞ生福助である」と宣伝され現れた。
頭の大きな奇形児はさほど珍しいものではなかったが、福助人形の流行児だったため連日満員だった。
●金玉娘
金玉娘は文化二年(1805年)に江戸の観場で現れた20歳ぐらいの美女だったが、陰部から大きな睾丸のようなものがぶらさがっていた。これは開茸という陰部にできる腫瘍であり、陰部に五号徳利がぶらさがったようなかんじである。
この興行主の、彼女のおかげで大いに利益をあげたので妾にしようと外科医に手術させたが出血がはなはだしく死亡してしまったという。
●矮人の足芸
こびとの岩本梅吉は足芸が優れていた。文化12年から名古屋大須門前で見世物をはじめたが、両足の動きは両手のように自由自在で、さまざまな曲芸を演じた。下座の太鼓や三味線にあわせて、梅吉は右足に鈴の柄、左足に扇子を挟んで、三番叟を踏むのであるが、両足の動きはまったく両手のよう、肩から頭上へかけ、縦横無尽に足を動かしつつ拍子をとった。
江戸で畸形による足芸の見世物は、亨保時の金太夫以来、興行がなかっただけでなく、梅吉の足芸は金太夫よりもはるかに優れていたので、多大な人気を呼んだ。
●猩々
猩々とは架空の生物でオランウータンのようなものである。猩々太夫は13〜14歳の少年だが、頭髪は、眉、まつげにいたるまで柿色だったので猩々と名付けられたのだろう。能の装束を身に着けて猩々舞の仕草をしていた。大手額の娘は4歳ぐらいの少女だが、名前通りの大おでこで後から先まで一寸五尺という見事さに客足をひいた。その後、猩々の兄弟が人気を博した。
●目出小僧
文政12年、名古屋大須門外で目出小僧が一世を風靡した。目出小僧は花山成勧といい、少年の扮装をしていたが実際は20歳以上だったと思われる。扇の要でめじりを押すと、目玉がヒョイと飛び出すという奇怪極まる芸だった。自由に目玉を出し入れするのは、前代未聞の珍芸であるとの評判で、連日満員状態だった。その後、さらに奇怪な目出芸の眼力太郎も客足をひいた。
天保(1831-1845年)における目新しい畸形見世物では、逆さ首、天の岩戸、大陰茎、歯力などがいた。
●逆さ首
逆さ首は、天保2年(1831年)に江戸で活躍したもので、身体がぐにゃぐにゃになった畸形だった。名前は勇吉という42歳の中年男性である。胸の上から弓のように折れ曲がっており、左耳が乳に付いていたという。歩行はできず、這いずり廻っていた。寝るときは物にひっかかっていたという。
もっともこの勇吉は生まれつき畸形だったわけではなく。14歳まで無病健康だった。それが15歳のときに風邪をこじらせ、急に肩を痛めこのようになったという。いわゆる脳性麻痺だろう。
●天の岩戸
天の岩戸はもともとは腹芸といわれるものである。天保4年(1833年)、名古屋大須にあらわれた南部東玉の腹芸は畸形に値するものだった。首に大しめなわをかけ、腹を背骨につくほどへこまるて洞穴のようなものを出現させ、そのへこみ部分に板を置き、上に3つのろうそく皿をのせて火を付けてみせたという。
●大陰茎
天保6年、江戸馬喰町に滞在していた盲人長悦は陰茎が巨大で、引き伸ばせばあごまで届き、勃起すると1尺88寸2分になったという。木戸銭を払って見ると、長悦が舞台で下座の囃子にあわせて陰茎の先を口にくわえたり、腹太鼓を叩いていたという。
●歯力
天保12年(1841年)の頃、なんでも口に加えて持ち歩いたり、噛み砕いたりする歯力鬼右衛門というのがいた。最初に茶碗をガリガリと噛み砕き、次に、六尺の大盆へ子ども二人を乗せたのをくわえながら踊る。第三に四十八貫目ある釣り鐘をくわえて持ち上げ、舞台を一周した。
幕末の畸形見世物
幕末になると盛んだった畸形の見世物興行が次第に衰退しはじめる。明治維新までに興行された畸形見世物のなかで注目を集めたのは、蛇小僧、熊童子、肥大の三少女である。
●蛇小僧
嘉永3年(1850年)、蛇小僧こと孫金太郎(7歳)全身がほとんど蛇皮のような奇病だった。詳細はわからないが魚鱗癬という皮膚病かもしれない。顔面は常人とかわらないが、頭髪のなかに耳のようなものが2つあり、あごから下の全身はまったく蛇皮のようだったという。
蛇小僧はもともと治療のために親に連れて江戸へやってきたものの興行師が買い取ろうとしたため、親が怒って連れて帰ったため、興行師はあわてて偽物を作りあげて、偽物で両国と大橋の2ヶ所で興行したのみである。そのため正確には本物の蛇小僧自身は見世物に参加していない。
●熊童子
嘉永3年(1850年)に、東両国の見世物に熊童子があらわれた。品川から江戸へ行進するというふれこみをしたので、通行の道筋にはさながら祭礼のような見物客で群がりができた。
熊童子一行の先頭は、丹後国からつきそってきた男10人、その次に母親に手をひかれて熊童子が歩いた。熊童子は5歳の少女で、身体は着衣のため見えないものの手足をはじめ、顔は眉の上から顎のしたへかけて、漆黒の毛が渦巻いてふさふさとしていたという。その後ろを興行師3人が、熊童子と書いた大団扇であおぎながら行進した。
●肥大の三少女
幕末期に最も人気が高かったのが肥大の三姉妹である。肥後国天草郡城崎村百姓太平の娘で、長女お松16歳は、身長6尺8寸あまり、体重38貫目。二女お竹11歳は、身長5尺7寸あまり、体重25貫700目。三女お梅8歳は、身長5尺1寸あまり、体重19貫800目だった。
見た目それほど大女ではなかったが、はなはだしく肥満だったとされている。小屋に入ると三姉妹は自分の名前を模様にした着物を着て、麦こがしを一袋24文で売るだけの売り子だったためたいした見世物ではないもの、ほかの興行を圧倒する大人気だったという。
明治時代の畸形見世物
江戸時代の見世物は、興行場所や一仮小屋形態などは奉行所から指定されて制限はあったものの、演目内容についての法は存在しなかった。しかし、明治になると新しい政府ははっきり風紀的な立場から見世物に対して取り締まりをはじめた。
まず明治元年(1868年)「皇国の首府に見苦しい」という理由で、性的な見世物が禁止された。同年、11月には相撲と蛇使いが禁止される。ただし、相撲を裸体で演技するから禁止するというのは、あまりにもばかばかしいためあとで禁令はとかれた。また、明治3年(1870年)見世物に贋造物を出すことも禁止された。
続いて、明治5年(1872年)に東京都では「東京府下違式詿違条令」が施行され、不具者見世物が禁止された。つまり、畸形や病気の人々を見世物にすることが禁止されたのである。これで江戸時代以来、庶民の人気を集め、また現代におけるわれわれの見世物のイメージである畸形見世物の大部分が公的に禁止されることになった。
ちなみに同条例では、ほかに外国人の批判、野外での大小便、春画販売、裸体、人糞肥料、混浴、男装、女装、刺青なども禁止された。現在にいたるモラルの基盤がこのときに整えられた。
特に異様な生殖器を持つものの見世物はほとんどこのときに見られなくなったが、それでも巨人をはじめ、こびとや缶児などの身体障害者などは大々的ではないが興行されていた。
明治5年、支那南京生まれの巨人詹五九が浅草奥山で見世物にあらわれ話題を集めた。身長は2m36cm。1840年の生まれで、1893年(明治26年)に亡くなったらしい。
蜘蛛男という触れ込みで名高った養老勇扇(本名:佐藤勇吉)は、羽前国米沢生まれで、年齢52歳のこびとだった。
胴の長さが七寸五分で、さらにその手足が三ツに折れるので、胴とその他の部位の不釣り合いと、絶えずものをうかがってるような目つきから蜘蛛男とよばれた。
このような畸形の見世物はすでに禁止されていたが、明治11年(1787年)手品師の養老滝五郎の門人として養老勇扇と名乗らせ、手品を看板にすることで寄席に出演することができた。
もっとも手品とは名ばかりの子どもたらしであったのみか、それさけ介助人が行い、彼は高座に控えているだけだった。しかし、それが異常に人気だっったのは、やはり気味の悪い蜘蛛によく似ていたからだろう。
明治14年には浅草公園に両手のない女太夫の足芸の見世物が見られたという。浪花小鶴という名前で、その名の通り大坂の浪花生まれだが、幼なきころに両親を亡くし、兄弟もない上、親類も少ない不具者だったので、生活のために何か芸を覚える必要があると思い足芸を学んだという。
■参考文献
・見世物大博覧会図録 国立民族学博物館
・朝倉無声『見世物研究』 ちくま学芸文庫
・川添裕『江戸の見世物』 岩波新書
■画像引用
※1:https://ja.wikipedia.org/wiki/見世物小屋