目出小僧/Pop eyes boy
目玉がヒョイと飛び出す少年
概要
目出小僧は文政十二年11月から名古屋大須門外の興行をはじめた見世物芸人。目玉を自由に出し入れする芸で話題を集めた。
目出小僧は芸名・花山成勧と名乗り、少年の扮装をしていたが、実際は20歳以上だったとおもわれる。扇の要で目尻を押すと、目玉がヒョイと飛び出す奇怪きわまる演芸だった。
このように自由に目玉を出し入れするというのは、前代未聞の珍芸であるとの評判高く、連日満員を続けた。
目出小僧は名古屋での興行終了後、江戸へ移り、天保元年(1830年)両国の観場に出演もしている。当時、珍しく変わったことが好きな大名として知られた松浦静山は、ある日、両国を通ったときに何気なく見世物小屋の看板を見ると、不思議にも目玉をみずから押し出している男の姿が描かかれていたので、帰宅するとすぐに医者の息子の修徳に見世物小屋へ実地調査を命じた。その報告書によれば
「両国の見世物芸人、目出小僧を見物すると、年齢は20歳を超えているとおもうが、唐子の服装をしている。身体の前に太鼓を置き、自分でこれを鳴らして、演芸の始まりを告げる。男の目を見ると、恍惚として瞳に光がない。目のあたりはくぼんでいる。眼の病気とは異なる。はじめ、目を出すときは、指でめじりを少し押すとすぐに出た。それはまるで鯛の目玉のようだったが、黒目はくもっていて、白目は灰白色がかっていた。出ている目玉をよく見ると白い部分が多く、黒部分は少なく、目玉が出ているときは瞳はまったく動いてない。近くで見ると睨んでいるようにみえる。その後、太鼓を打ち、目を元に戻すと言い、指を使わず目を元のくぼみに戻した。次に、左右の指で同時に両目のめじりを押すと、両目とも飛び出した。それは座禅を組んだ達磨大師の絵とよく似ている。その後、木戸番の者に男の出身国を聞くと、五島列島宇久の出身だという。けれども声を聞くとこのあたりの人のようでもあり、よくわからない。」
と記してある。そこで、静山は医者に命じて官医の桂川氏と眼科医の馬畠氏とに、この件について尋ねてみたが、桂川氏によれば人間の目玉を自由に出し入れすることは決してできないという。
目玉は六筋といって臓物から続いているもので、吊ったような状態になっており、なかなか自由に出し入れできない。もし怪我などしたときは、その衝撃で眼球が露出してしまうこともあるだろう。
ただし、平常時に出し入れするという事は、医学的にありえないと否定し、そのときに居合わせた蘭学者も、目玉を自由に出し入れするようなことは南蛮の医学書にも書かれていないと語ったが、また一方で馬畠氏の返答も同じだった。
このような当時の医学的見地から見ると、目玉を自由に出し入れさせることは、ありえないにもかかわらず、両国の見世物目出小僧は、皮肉にも見事に医学理論を裏切っているので、さすがに博学の静山も本当に論理外の理であると驚嘆させたという。
※パキスタンにおそらくこれをと同じ症状の目出小僧は存在する
■参考文献・画像引用
・朝倉無声『見世物研究』
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