猩猩兄弟/Shōjō Brothers
頭は柿色で全身が真っ白のアルビノ兄弟
概要
天保6年(1835年)7月から、本所中之郷八軒町の石屋週次宅に猩猩二人を泊めて、見世物にしようと芸を教えていると噂がたった。
猩猩は白子、海外ではアルビノ症といわれるもので、生まれつき色素が少ない奇病である。『和漢三才図会』にも、全体が白く、頭髪だけは痰赤色と書かれており、たいして珍しい畸形ではなく、江戸時代でもさまざまな場所で見られた。そのような猩猩でも、特に人気があったのが、兄弟の猩猩である。
この2人の猩猩は、豊前国宇佐郡八幡宮領小浜村の猟師善兵衛の子どもで、岩八(11歳)と喜八(8歳)の兄弟が、叔父の善助にともに江戸へ来て、周次の家に滞在していたときに噂がたった。
兄弟の父善兵衛は、25年前(文化八年)に同じ村に住む百姓の娘とせと結婚したが、11年前(文政八年)に困窮のため善兵衛は、とせを兄の善助に預け、他国へ出稼ぎに行くことになった。その留守中にとせは、善助の世話になるのが苦痛で、毎日山へ薪を取りにいっていたが、ある日、山深く分け入ったところ、茫然としてしばらく気を失っていた。
やがて、意識を取り戻して自宅に帰ったが、妊娠がわかりまもなく出産した子どもを見ると、全身は粉のように白く、しかも頭髪から眉やまつげにいたるまで柿色だったという。
三年後にまた同じ山で同じ現象に生じて、同じく同様の畸形児を出産したが、夫の出稼ぎ中に奇怪な子どもを2人も産んだのを恥じてか、失踪してしまった。
善助は野心的な気質を持っていたので、2人の白子を猩猩の落胤と称して、京都へ連れて生き、2人を見た人は無病長寿で、疱瘡や蕁麻疹予防になると宣伝して、見世物商売をはじめたという。
そのとき、ちょうど京都に滞在していた石屋周次は、もともと興行師だっただけに、野心的な善助と相談して4人で江戸へ移り、自宅に滞在させ、兄弟に芸を仕込んでいたのだった。
猩猩が行った芸とは河東節にあわせて、猩猩舞を演じることだった。この噂がいつのまにか江戸の町中に広がり、江戸で見世物を行った。
ちなみにこの猩猩兄弟は、助平の気質だったのか、女性の見物人が近づくと、服の中に手を入れるので、遊郭へ連れて行こうと相談したら兄弟は非常に喜んだという逸話が残されている。
その後、さまざまな場所で見世物をおこなったが、だんだんと飽きられて、2人の見世物はなくなったという。
■参考文献・画像引用
・朝倉無声『見世物研究』
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