蛇小僧/Snake boy
蛇のような鱗の奇病を患っていた少年
概要
孫金太郎は嘉永時代にいた全身に蛇のような鱗の奇病を患っていた少年。
金太郎は奥州二本松の薬屋甚兵衛の養女さきの私生児として産まれた。甚兵衛の養女さきは、同国石沢村の酒造家亀三郎方に奉公していたが、同村の百姓平次兵衛と夜中に密会して妊娠したので、養家である甚平衛のもとに帰されることになった。
そこで、養父甚平衛は、平次兵衛のもとへ向かい、さきの妊娠の責任をかけあったが、当時平次兵衛は、隣国の親族方に滞在していたことが判明したのでアリバイがとれ、さきと私通した証拠がとれなかった。
その後、臨月となり男児を産むことになるのだが、産まれた子どもは奇怪にも全身が蛇のような鱗で、また父親がわからなかったので村中では、大蛇の呪いではないかと噂が広がった。
金太郎の身体を不憫におもった養父甚兵衛は、嘉永3年(1850)2月8日から、この奇病を診察してもらうために江戸の馬喰町の宿に金太郎を連れて滞在することになるが、このときに、江戸中で「蛇小僧が来た」と噂が広まってしまう。
甚平衛は2〜3人の江戸の名医に金太郎を診てもらったが、これは病気ではないから治療はできないと断られる。当時、実際に金太郎の診察した医者によれば、顔は普通の人と変わらないが、頭髪の中に耳のようなものが2つあり、またあごの下から青みがかって全身は蛇そのものだったという。
この医者の話しにもとづいて浮世絵師が、蛇小僧の錦絵を描き、絵草紙屋で販売をはじめた。そのため蛇小僧の噂は江戸市中にますます広まり、噂を聞いた興行師が金二百量で蛇小僧を買い取りたいと養父甚平衛にかけあったが、見世物に売り出すためではなく、病気の診察が目的で連れてきた甚兵衛はおおいに怒り、「江戸は恐ろしいところだ」と話して、早々に二人は帰国してしまった。
しかし、興行師は蛇小僧を非常に惜しくおもい、ついには蛇小僧の錦絵にもとにした贋物の蛇小僧をしたてあげて、両国と大橋の二ヶ所の見世物で興行を開催する。
贋物の蛇小僧を売り出した見世物小屋の前には、「日本一の蛇の子」とキャッチを付けたのぼりを立て、また絵看板が描かれた。
絵看板の内容は深山の滝のそばえ蛇身のこどもが、一匹の狼を足で踏み、また両手で一匹を持ち上げて、今にも滝壺へ投げ込もうとする姿を見て、母親が驚いて駆けつけるシーンである。二人の上には大蛇が描かれていたが、それは母親がその蛇の呪いで蛇小僧が産まれたのを暗示したものだろう。
この絵看板のそばに口上の立て看板が置かれた。それには奥州牡鹿郡反鼻多山麓蛇田村旧家里長何某の孫で、その母は大蛇に呪われて妊娠した男子なので、深山に生息する猛獣にも恐れず、水中でも溺れないと書かれてあったという。
蛇小僧の見世物は興行師による細工の贋物だったが、当時、江戸中では蛇小僧の話題で見世物として出演するの待ちわびている人が多かったため、だまされているとは知らず、開場早々立場のないほども満員になったという。しかし、すぐに贋物だと判明したため、見世物はすぐに閉鎖した。
■参考文献・画像引用
・朝倉無声『見世物研究』
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