土方巽 / Tatsumi Hijikata
暗黒舞踏の創設者
概要
生年月日 | 1928年3月9日 |
死没月日 | 1986年1月21日 |
国籍 | 日本 |
表現形式 | 舞踏 |
ムーブメント | アングラ |
土方巽(1928年3月9日-1986年1月21日)は日本の振付師。「舞踏」と呼ばれるダンス・パフォーマンスの創設者。「舞踏」は「暗黒舞踏」や「前衛舞踊」ととも呼ぶ。
1960年代後半までに土方は、これまでの舞踊(ダンス)を彼の故郷である北日本の子ども時代の記憶を元にして独自に開発した身振りを付け加えた新しい形態「舞踏」に発展させた。
舞踏はヨーロッパの舞踊の真似ではない日本的な舞踊の創生を目指したものだった。剃髪、白塗りをトレードマークとし、重心をぐっと低くし、リズムにとらわれず、身体をひねり、丸め、床に転がるのが特徴である。
舞踏はヨーロッパに大きな影響を与え、「Butoh」という言葉で世界中で使われている。
略歴
上京まで
土方巽は1928年3月9日、日本の秋田県で生まれた。本名は米山九日生。11人兄妹の10番目の子どもだった。
秋田工業高校に入学、ラグビー部に所属する。高校卒業後、市内にあった増村克子のダンス研究所でドイツ系の表現主義のダンス、ノイエタンツを学ぶ。
1947年にはじめて上京する。高輪の寺の屋根裏に下宿するが、ここで、後に画家になる田中岑に出会い、さまざまな芸術家に紹介される。
土方は上京当初は、スリや万引きなどの軽犯罪行為で生活していたともいわれているが、自身の生い立ちを粉飾する癖があったため、窃盗での生活は本当かどうかはわかっていない。実際は限られた外食券と日雇いの仕事での生活だったと思われる。
二度目の上京時に暗黒舞踏の先駆者の大野一雄の公演「第一回大野一雄舞踊公演」を鑑賞して衝撃を受ける。この頃に、増村克子の師でもあり、大野一雄の師でもある江口隆哉の舞台に出演し、モダンダンサーとしてダンス界に入る。
後の前衛美術家たちとの盛んな交流
東京と故郷の秋田を往復したあと、1952年から、東京へ永住する。その年はアメリカの日本占領が終了した年だった。
1952年、25歳の時に、安藤三子舞踊研究所に入る。大野一雄を出演した「安藤三子ダンシング・ヒールズ」の公演で舞台に立つ。この頃、ジャズダンスに熱をいれはじめ、ドイツ的なダンスからアメリカ的ダンスへ興味を移す。このころの土方は、もの静かなたたずまいと暗い表情でジェームス・ディーンを気取っていたという。
この頃に土方は美術家の河原温や舞台美術家の金森薫らが住んでいた「赤坂梁山泊」と呼ばれる赤坂にあったアパートに出入りするようになる。ここで美術家の池田龍雄や写真家の奈良原一高らとも出会うことになる。
一方、上野・池之端の黒木不具人の家にも出入りし、美術家の小原庄助や篠原有司男らとも交友していた。この時期の多様な芸術家たちのさかんな交流が、後の60年代アヴァンギャルド・アングラムーブメントでの土方の活動の基盤となった。
ほかに、その後コラボレーション活動を行うことになる三島由紀夫、細江英公、ドナルド・リチーらと出会っている。
暗黒舞踏
1959年の三島由紀夫原作の小説『禁色』の舞台公演のときにはじめて、暗黒舞踏を公開する。激しく、性的な動きのそれは観客を驚かせた。当時はまだ「舞踏」という言葉はなかったが、この公演が舞踏のはじまりとみなされている。
土方が「舞踏」という言葉を使ったのは正確にはわからないが、1966年7月に行った公演「性愛恩懲學指南図絵——トマト」に際して「暗黒舞踏派解散公演」をうたっている。
1962年に舞踏家でパートナーの元藤燁子と東京都目黒区にダンス・スタジオ「アスベスト館」を設立する。このスタジオは土方の生涯の稽古場となった。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Tatsumi_Hijikata
・https://kotobank.jp/word/%E8%88%9E%E8%B8%8F-162220
・http://www.art-c.keio.ac.jp/old-website/archive/hijikata/
■画像引用