天井桟敷 / Tenjō Sajiki
地下だが天井を目指すアングラ演劇
概要
「演劇実験室 天井桟敷」は、1967年1月1日に寺山修司が創設した劇団。インディペンデントの劇団で、活動期間は1967年から1983年の寺山が亡くなるまで。当時のマスコミは胡散臭さを理由に報道はほとんどしなかった。寺山修司の名前が一般的に知られていくようになったのは、この1967年の天井桟敷の旗揚げからとされている。
音楽ではJ・A・シーザー、カルメンマキ。グラフィックデザイナーとしては横尾忠則、宇野亜喜良らが参加していた。
第一回公演は1967年4月18日、草月アートセンターでの旗揚げ公演「青森県のせむし男」。天井桟敷は、その出発において「見世物の復権」を提唱し、この作品では見世物小屋の怪奇幻想と少女浪曲師の語りと線香の香りで場内を満たした。
天井桟敷は、前衛的であり、また今までの演劇や劇場のあり方を破壊する目的で結成された。実験性、土俗文化、社会的挑発、グロテスク、エロティシズム、極彩色の強い視覚幻想などが天井桟敷の舞台演出の特徴で、映画「田園に死す」をさらに泥臭くしたような感じだった。
天井桟敷に関するメモ
・天井桟敷はおでんの屋台のようなもので、寺山修司と妻の九條今日子がひいていた。寺山修司の収入源はテレビや映画のシナリオ制作、作詞、コラムなど文筆業が本業で、本当に好きだったのは劇団作り。劇団作りは寺山にとっていろいろな希望や憧れみたいなものが詰まっていた。劇団だけでは食べていけないから、演劇しながら原稿を書いて生計を立てていた。
・九條今日子は「製作」担当。予算作り、公演ポスター作り、チケットとチラシの配布。10人ぐらいしか入れないようなバーやゴールデン街に売りに行っていた。5枚置いて2枚売れたら回収とかそういう生活。プレイガイドはあったけどアングラは売れなくて手数料だけかかるから置けなかった。それで、ゴールデン街という密集したバーをチケット販売所にうまく使った。ゴールデン街が寺山修司の文化が残っているのはそうした理由。
・劇団の目的の1つは、劇団を通じて身近な人間が欲しかった。母一人子一人でとにかく兄弟が欲しかった人。自分の妹分にしたり弟分にしたり、だからやっぱり家族が、1つの世界を作りたかった。劇団に対する思い入れはそこ。
・演劇というより実際はロック。その分野は演劇や音楽からデザイン、ファッション、アートまで網羅していた。かといって当時のように社会革命を目指しているわけではなく、演劇そのものの構造を革命しようとしていた。
・公演回数を調べると実際は、海外での公演の方が多い。日本に事務所は置いているけど、プレイヤーとしては大リーグで、アメリカだけでなく世界標準だった。だから海外で完成させたものを日本に逆輸入して舞台にするというものもあった。
・天井桟敷はちょうど全共闘世代の時代で若者の政治への関心が高かった時代だけど、政治に興味ある人はアングラ演劇に関心を持たなかった。政治的に自分の存在感をアピールするために集団に埋没(左翼)するタイプではなく、ただなにか「ことを起こしてやろう」というような若者が入ってくる。「ことを起こす」に政治要素はない。歌を歌って有名になりたいとか、写真家になりたいとか、政治にあんまり興味のない連中。
略歴
劇作家になるまで
寺山修司が劇作家として活動を始めたのは、1956年20歳のとき、早稲田大学在学中に早稲田大学の劇団「緑の詩歌」の旗揚げ公演で初めて戯曲「忘れた領分」を書いたことだった。それ以前の寺山の文筆活動は俳句が中心だった。
その後、谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始め、本格的に劇作家・シナリオライターの道を進むようになる。
天井桟敷設立のきっかけになったのは、1965年に東由多加が演出をしていた早稲田大学生の劇団「なかま」の公演を観賞したこと。終演後の打ち上げで、寺山が公演の批評すると劇団員が感動して、次の日に東由多加が劇団員を寺山の家に引き連れ、劇団のための新作を書いてほしい頼みんだという。
そのときに寺山は「新作を書くんだったら、新しい劇団をつくったほうがいいんじゃない」という提案する。また自身も戯曲を提供するだけだけなく、演出家として参加してみたいということで劇団設立に向かった。
「演劇実験室 天井桟敷」という名前の由来
劇団名を設定するにあたり、寺山は宣伝美術を担当してくれる和田誠や横尾忠則に劇団名を相談する。「(好きな演劇を好きなようにやりたいという)おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう」と思い「天井桟敷」と名付けた。
60年代後半はアヴァンギャルドとかヌーベルバーグとか世界中で前衛的な作家や作品が生まれていた時代だった。その頃に寺山はニューヨークへ演劇視察の目的で何度か渡米しており影響を受ける。
アメリカで100人とか200人で満員になるような小さな劇場が地下にありそれが「アンダーグラウンド」と呼ばれていると知る。その「アンダーグラウンド」で上演されている演劇のほうが大きな劇場で公演しているものより遥かに面白いと寺山は感じ、アンダーグラウンドで成功した演劇がブロードウェイに上がって、世界中のツアーをやるということに感動したという。このニューヨークの「アンダーグラウンド」体験きっかけで、自分たちの劇場を作りたいと思うようになった。
ただ、当時寺山は30過ぎで20歳ぐらいの学生とすごく年齢差があり、何も知らない学生と一緒にするのは不安だっため「演劇実験室」というのを頭に入れ。「演劇実験室 天井桟敷」に決定した。東由多加と劇団設立の話が出てから1年以上たった1966年の暮れのことだった。
劇団旗揚げの準備の資金集め
最初の事務所や稽古場などの活動拠点となったのは、当時寺山が住んでいた下馬2丁目の自宅の前にできたコンクリート3階立ての建物。ボイラーで家中があたたまるようになっており、1階から3階までに4部屋あり、ひとつの部屋が20畳ぐらいあった。
そこに劇団員たちが住み込み、彼らが現在払っている下宿代で12万のマンションの家賃を支払い事務所兼住居兼稽古場にしたという。
旗揚げ公演の資金を集めるために、劇団員たちは、2階の事務所兼稽古場のスペースで寺山を囲んで詩の朗読会や映画上映会を行う「天井桟敷サロン」という会を企画する。紅茶とお菓子を付けて、一人1000円の会費を取ってお金を集めた。
寺山修司は詩人らしくその場で座っているだけだった。この「天井桟敷サロン」は予想以上にお客さんが集まり、旗揚げ公演の資金が集まった。貧しい劇団員と対照的に、客は良家のお嬢様が多かったという。
衣装や小道具は、九條今日子がかつて在籍していた松竹から無料で借りることになった。劇場は寺山の知り合いだった草月会館にいた奈良義巳の協力で無料で貸してもらえることになった。
天井桟敷旗揚げと「青森県のせむし男」
「演劇実験室 天井桟敷」は、1967年1月1日に、寺山修司と横尾忠則、早稲田大学時代に劇団「なかま」で寺山の長篇戯曲『血は立ったまま眠っている』を演出した東由多加、九條映子らによって創設された。第一回公演は、その年の4月18日から20日まで草月会館ホールで上演された『青森県のせむし男』である。
出演は、芸名桃中軒花月をもってデビューした当時18歳の女子高校生だった林妙子、シャンソン歌手だった丸山明宏(現・美輪明宏)、のちの『ビックリハウス』編集長となる萩原朔美らだった。
「青森県のせむし男」では、見世物小屋の怪奇幻想と少女浪曲師の語りと線香の香りで場内を満たした。幕開きの音楽はサーカスの客寄せの音楽として広まった「天然の美」だった。高評を得て、5月13日から15日までアートシアター新宿文化で再演され、5月29日から31日まで再々となった。
天井桟敷は「見世物の復権」を提唱していたが、それはただ昔の見世物小屋を現代に復活させる「郷愁」を楽しむことを意図をしているわけではない。まさに現代社会の問題を扱うための方法としての「見世物」なのだった。
第二回公演は1967年6月27日〜7月1日にかけて、新宿末広亭で上演された『大山デブコの犯罪』。出演者にのちに寺山修司の映画や演劇にきってもきれない存在となる新高恵子が参加。当時、彼女はピンク映画界の女優として活躍していた。タイトルが示す通り100キロ前後の5人の大山デブコが並び、まさに見世物のようなものだった。
第三回公演は1967年9月1日〜7日にかけて、アートシアター新宿文化で開催された「毛皮のマリー」。美輪明宏の「花咲ける40歳の男娼」を主役とした作品で、天井桟敷の初期代表作品。
しかし、この公演で大きなトラブルが発生する。横尾が劇団と意見が対立し、上演前に退団してしまう。喧嘩の具体的な理由として一般的には、舞台係が道具屋に発注するときに寸法を間違ったため、舞台に入らないほどの美術になり、寺山がそれをノコギリで切ろうとして、横尾が烈火のごとく怒ってトラックに大道具を積んで持って帰ったことになっている。もうひとつは本当の理由は寺山修司に代わって演出を担当した東由多加と横尾忠則が意見が対立したことである。
上演2日前に美術を横尾が持って帰ってしまい、みんなが頭を抱え込んでいるときに、助け舟を出したのが主演の美輪明宏である。美輪の部屋から衝立てや鏡や長椅子など家具などのアンティーク家具一式を運びこむなどして、装置をつくった。
さらに、美輪はコシノジュンコが担当した衣装が、予算がなく紙の衣装だったことが気にいらず「私は、本物でなければ舞台に立てない」と言い、自前でオートクチュールの毛皮をあしらったシルクのドレスを発注する。出演料の20倍以上の値段だったという。
渋谷天井桟敷館
下馬の天井桟敷が借りていたマンションは、1階と2階は劇団員が自由に出入りできるフリースペースで、3階だけは寺山夫妻のプライベートルームで私生活と劇団とは区別していた。
ところが、『青森県のせむし男』以来、『大山デブコの犯罪』『毛皮のマリー』『花札伝綺』と立て続けに上演して、1年が過ぎた頃になると、気がつくと家中が劇団になっていて、家庭を維持することが難しくなってきた。
ちょうどそのとき、渋谷の並木橋にあった自動車工場だった物件が空き、寺山と九條は渋谷に天井桟敷館を立ち上げて移転をする。2人は別のところに部屋を借りて劇団と家庭を分離することにした。なお渋谷天井桟敷館は、地下が劇場、1階が喫茶室、2階が事務所と楽屋、劇団員の宿舎だった。