トッド・ブラウニング/ Tod Browning
見世物映画『フリークス』の映画監督
概要
生年月日 | 1880年7月12日 |
死没月日 | 1962年10月6日 |
国籍 | アメリカ |
職業 | 見世物芸人、映画監督、俳優 |
トッド・ブラウニング(1880年7月12日-1962年10月6日)はアメリカの映画監督、俳優、脚本家、ヴォードヴィル・パフォーマー。
おもにサイレント映画やトーキー映画の時代に活動。代表作は1931年の『ドラキュラ』、1932年の『フリークス』、怪奇俳優ロン・チェイニーや女優プリシラ・ディーンらとの協働したサイレント映画作品である。
作品解説
略歴
幼少期
ブラウニングはアメリカ、ケンタッキー州西部のルイビルで、父チャールズ・アルバートと母リディア・ブラウニングの次男として生まれた。幼少期の名前はチャールズ・アルバート・ブラウニング、Jrだった。プロ野球のスター選手のピート・ブラウニングの甥でもあった。
若いころブラウニングはアマチュア演劇の活動をしていた。サーカスやカーニバルの生活に魅了され、16歳のときに裕福な家を離れ、サーカスのパフォーマーとして働くようになった。
名前を"トッド”に改名し、サイドショーやカーニバル、サーカス団らと広範囲の旅行生活をしていた。"ボルネオの野人"という売り文句で当時人気だったサイドショー・パフォーマーのして人気のオーフティ・グーフティの呼び込みを行ったり、リングリング・ブラザーズ・サーカスでピエロをしていた。この時代の経験はのちの映画作品の源泉元となった。
また、ブラウニングは俳優、奇術師、ダンサーとしてヴォードヴィルでパフォーマンスをしていた。当時の人気漫画『マットとジェフ』や『トカゲとアライグマ』の劇に出演したり、コメディアンのチャールズ・マレーと『誕生の輪』という劇に黒人役で出演したりもした。
映画の初期キャリア
のちに、ブラウニングはニューヨークにあるさまざまな劇場でディレクターとして働いていた。そのころに映画監督で俳優のD・W・グリフィスに出会う。彼はブラウニングと同じくルイビル出身だった。ブラウニングはグリフィスと彼の勤め先であるバイオグラフ社のもと、規模の小さい庶民的な映画館ニッケルオデオンでチャールズ・マレーとともにコメディ劇を演じた。
1913年グリフィスはバイオグラフ社を退社し、ニューヨークからカリフォルニアへ移ると、グリフィスは映画スタジオを設立する。このスタジオは現在のリライアンス=マジェスティック・スタジオである。
ブラウニングもまたカリフォルニアへ移ったグリフィスのあとを追い、彼と映画製作を続けることになり、1916年のモノクロ・サイレント『イントレランス』にエキストラとして参加するなどさまざまな仕事に従事した。
このころにブラウニングは監督業もはじめ、リライアンス=マジェスティック・スタジオで11の短編作品を制作し、また1913年から1919年の間にブラウニングは約50の映画に役者として出演した。
1915年6月、ブラウニングはスピード超過で電車に激突して自動車事故を起こした。車には映画俳優のエルマー・ブースやジョージ・ジークマンが乗車していた。ブースは即死し、ジークマンは重傷、またブラウニングは右足を骨折し、前歯を折るなどの重傷を負った。
療養中、ブラウニングは脚本を書き続けていたが、1917年まで映画活動は休止することになった。のちに著名MGMエディターとなるブースの妹マーガレット・ブースは、兄の事故死について決してブラウニングを許することはなかったという。
サイレント長編映画
ブラウニングの初長編作品は1917年の『ジム・ブルードソー』で、これは火災から乗客を救う船長の話で、大ヒットした。
ブラウニングは1917年にニューヨークに戻るとメトロ・スタジオで『ペギー、ウィル・オ・ザ・ウィスプ』と『運命の裁き』の2本の映画の監督をつとめた。両方の作品とも主演はメーブル・タリアーフェロがつとめた。『The Jury of Fate』は当時、画期的な二重露光技術を使った作品としても評判が高かった。1918年にカリフォルニアに戻ると、メトロのもとで『不思議な眼』や『復讐』など2本の映画作品の監督をつとめた。
1918年の春、ブラウニングはメトロ社から離れ、ユニバーサル・ピクチャーの子会社であるブルーバード・プロダクションに入る。そこでアーヴィング・タルバーグと出会った。タルバーグは1919年の映画『邪悪なダーリン』制作で、はじめてブラウニングとロン・チェイニーのペアをクマせた。その後10年で10本の映画を制作することになる。
このころに父が亡くなり、そのためブラウニングをひどく落ち込みアルコール依存症に陥る。ユニバーサルから解雇され、妻も家出する。しかし、ブラウニングはアルコール依存から回復して妻とも和解し、ゴールドウィン・ピクチャーズと新たに契約を結び、映画『信仰の日』を制作してそこそこ成功する。この作品はブラウニングが復帰するきっかけとなった。
ロン・チェーニーとフリークス
ブラウニングのフリークス映画について語るとき、まず思い出されるのは1923年の『ノートルダムのせむし男』である。
実は彼の方向性を決定づけたのは、この映画にせむし男役で主演していた俳優ロン・チャニーとの出会いであった。ロンは、「千の顔を持つ男」とあだ名されており、それは、あとがさまざまな醜悪な人物や、身体的不具の人間を演じたことからきたものである。『オペラ座の怪人』(1923)では怪人役、『黒い鳥』(1926)では偽の障害者の役を演じた。
チャニーは彼自身が奇妙な生育歴をもっており、それがブラウニングに大きな刺激を与えたといわれている。たとえば、彼を育てたのはろうあの両親だったし、最初の妻がアルコール中毒となって服毒し、声帯を焼いてしまうという凄絶な体験をしている。そして、そんな妻を捨てて、彼が駆け込んだのは、すでに足のない男と結婚していた踊り子の女性だった。
ブラウニングとロン・チェイニーとともに1925年に『The Unholy Three(3人)』を制作する。この映画は扮装して富裕層から宝石を盗んだり詐欺をくわだてる3人のサーカスのパフォーマーの物語で、若いころのブラウニングのサーカスの体験が、アンチヒーローに対する同情的な肖像として演出されている。
主人公は3人のパフォーマーは、小人のトゥイードルディ、怪力男ヘラクレス、腹話術師のエコーである。エコー役を演じたのはロン・チェイニーである。
この映画は大成功し、のちに1930年にロン・チェイニーの最初で唯一のトーキー作品として、死去する直前にリメイクもされた。そしてこのとき小人のトゥイードルディを演じた小人俳優ハリー・ドール・アールズがブラウニングに強烈な印象を与えたことが、のちの『フリークス』へとつながる。
ブラウニングとチェイニーは、『黒い鳥』(1926)『マンダレイへの道』『見知らぬ人』(1927)など人気コラボレーションシリーズに着手する。
『見知らぬ人』は、腕のないナイフ投げ男役にチェイニーがあてられ、また露出度の高いサーカス女役にジョン・クロフォードがあてられた。もともとの題名は『腕なしアロンゾ』で、サーカスフリーク、美、怪力男など要素が含れた三角関係恋愛の話で、のちの『フリークス』の原型が見られる。
1927年の『ロンドン・アフター・ミッドナイト』は吸血鬼というジャンルへのブラウニングの最初の作品で、チェイニーやコンラッド・ナイジェル、マーセライン・デイらが出演したかなり希少な消失した映画の1つでもある。
本作品のフィルムは1967年に発生したMGMスタジオの火災で消失。2002年に2002年にターナー・クラシック・ムービーズのリック・シュミドリンが修復を手がけている。
ブラウニングとチェーにーの最後のコラボレーションは、1929年の『獣人タイガ』で不完全なプリントだけ残っている。
ブラウニングの最初のトーキー映画は1929年の『十三番目の椅子』で作品の主演はルゴシ・ベーラだった。
トーキー時代
1930年にチェイニーが亡くなった後、ブラウニングは昔の職場であるユニバーサル・ピクチャーで『ドラキュラ』の監督をつとめた。
ブラウニングは不吉な存在感を際立たせるため、ほとんど知られていない未知のヨーロッパ人をドラキュラ役に起用したいと思っていたが、予算の制約やスタジオからの干渉で、ルゴシ・ベーラの主演とシンプルな展開を行わなければならなかった。
1931年にメロドラマ『アイアンマン』を監督したあと、ブラウニングは1932年に問題作となる『フリークス』の制作をはじめる。ブラウニングは、MGM映画社からモーリス・ルブランの有名な作品『アルセーヌ・ルパン』の映画化の話をもちかけられていた。
しかし、契約のための交渉がはじまった直後に、彼はあまり乗り気ではないことを打ち明け、話を断った。ブラウニングの心中には、以前の映画『三人』にも登場した小人俳優ハリーが持ち込んだトッド・ロビンスの脚本のことがあったからだ。それは、サーカスを舞台にした復讐劇で、タイトルは『スパーズ(拍車)』であった。
この映画のプロットは、裕福な小人と金に飢えた曲芸師と怪力男の3人の三角関係から生じた殺人事件というものである。復讐劇は小人と彼の同僚であるサーカスのフリークスらによって実行される。
『フリークス』は上映時に大きな論争を引き起こし、その後、大幅な編集で問題のあるシーンを削除された後でさえも商業的には失敗であり、またイギリスでは30年間上映禁止となった。