缶児/ Tokurigo
足芸に秀でた両手のない見世物芸人
概要
江戸時代の見世物には「缶児(とくりご)」よ呼ばれる芸人がよく登場した。缶児とは両手のない男女のことで、その身体が徳利子とよく似ていることから名付けられた。徳利子、無手人ともいう。
缶児は江戸の見世物最初期から現れている。寛永(1624ー1644年)年代に描かれた『洛陽小芝居屏風』に、小屋内で両足のない男と、両手のない女が足で射る様子が描かれているのが、おそらく最古のものだろう。足で弓を射たり、太鼓を叩いたり、糸を紡いでみせたという。
延宝年代(1673ー1681年)には、万太郎という缶児が人気を集めた。万太郎は大阪の道頓堀の見世物小屋で出演しており、足で字を書いたり弓を射たという。
亨保10年(1725年)には、江戸に山鳥金太夫という40歳ぐらいの男が、袖なし羽織に袴をつけて、両足でタバコを吹かせて人気を集めた。『亨保世説』に「手がなくてすむもの、山鳥金太夫と貧乏樽の味噌桶」と書き残されている。
しかし、缶児も見世物興行で何度も見るようになると、足で字を書いたり弓を射たりする程度では人の注目をひかなくなってくる。そこで、さらに技術をきたえ、れっきとした足芸で人を集める缶児が登場する。
天保4年(1833年)、大阪難波新地に数十軒の見世物小屋が軒をならべて人を集めたが、そのなかでもっとも人気を呼んだのが缶児無正軒亀吉の足芸である。『摂陽年鑑』に亀吉の足芸大当たりと書かれているが、亀吉は23〜24歳ぐらいで、両手はないが足は自由自在に動き、足でタバコを吹いたり字を書いたりしたが、何より弓芸が優れていた。遠方より弓を射一本もはづさず的中させることができたという。
高座では、まず左足の指で腰に差したタバコ入れを抜き取り、右足の指でキセルを持ち、さらに左足の指で自分の前に置かれたタバコ盆をとってつめてから吸うといった芸から、生花、弓を見せるといった流れで人気を集めたという。
この亀吉は、その後、月岡無正軒と名乗り、名古屋大須へ移って興行をおこなった。ここでも連日満員で「評判は足芸ならで太夫の名のむしゃうけん見物多き見世物」と狂歌として読まれたほどである。
天保7年(1836年)には、江戸の渋谷で。女缶児の早咲小梅太夫が各地で足芸興行を行い、女ゆえの人気を集め、のちの女足芸流行の先駆者となった。小梅太夫は、弓、投扇などさまざまな足芸を見せたという。また同年、安芸国宮島にて、女太夫小蝶と女太夫清山という女缶児の女足芸が行われたという。
幕末の万延元年(1860年)に、大阪難波地で缶児竹本駒吉の足芸興行が行われた。駒吉はこれまでの缶児の足芸に、勇壮な力技をくわえて注目を集めた。
彼の芸は、まず、文字を書き、太鼓を打ったりしたあと、足で鉢巻きを上手にしめてみせた。それから、右足で五斗俵をさしあげたり、歯でくわえて振ったりし、最後にその俵を足で高く投げ上げるという缶児としては至難の離れ技を見せた。
しかし、駒吉は、連日の満員入りを見た江戸の興行師と出演の交渉中、突然、血を吐いて死んでしまったという。
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